巻頭企画天馬空を行く
西岡 利晃
TOSHIAKI NISHIOKA
1976年生まれ。兵庫県加古川市出身。11歳のとき、父の勧めでボクシングを始める。1994年プロデビュー。利き足のアキレス腱断裂というアクシデントを乗り越え、2008年にWBC世界スーパーバンタム級の王座を獲得。以降7度の防衛を重ねる中で積極的に海外に赴き、2009年にはメキシコ、2011年にはアメリカ・ラスベガスでの防衛戦を成功させた。2012年に現役引退。引退後はボクシング解説者を務める他、フィットネスジムを経営するなど、ボクシングの魅力を広める活動に注力。また、動物愛護活動にも取り組んでいる。
元WBC世界スーパーバンタム級王者の西岡利晃氏。現役時代は「スピードキング」「モンスターレフト」の愛称で人気を集め、7度の王座防衛や日本人初となるアメリカ・ラスベガスでメインイベントを張るなど、日本ボクシング界における数多くの偉業を成し遂げた。しかしその裏では、4度の世界挑戦失敗やアキレス腱断裂という大ケガなど度重なる逆境が。西岡氏は、いかにして夢の斜面を登りきったのか。その軌跡をたどる。
父の勧めでボクシングの道へ
現役時代、多くのボクシングファンを魅了した西岡氏。まずは、氏のボクシングとの出会いから話を伺った。
「父親曰く、僕はもともと運動神経が良かったそうです。それで、保育園に通っていた頃には水泳を習い始めました。ところが、大会に出場してみると2位という結果に。これでは大成しないと、早々に辞めてしまったんです。小学校に入ると校内行事にマラソン大会があり、1年生のときには校内ダントツ1位。しかし、2年生になると2位に落ち、3年生のときには10位になってしまって。それで『サッカーのように走ることが必要な競技では、他の子に勝てないかもしれない』と思ったんです。
そんなあるとき、父から「ボクシングをやってみないか」と言われました。それまでボクシングに全く興味を持っていなかったので、最初は「やりたくない」って答えたそうですが(笑)。でも、「まずは試しにやってみて、面白くなかったら辞めればいい」と説得され、渋々ながらも住んでいた加古川市のジムに体験に行ったのが、僕の長いボクシング人生のスタートになりました。
いざ始めてみると、日々のスパーリングやミット打ちがとにかく楽しくて仕方がなかった。周りの大人からは『いいセンスだね』と褒められることも多く、それがとても嬉しかったのを覚えています。いつの間にか、家ではボクシングのテレビ放映を欠かさず観るようになりましたし、海外の試合映像のビデオを父が買ってきてくれて、それを2人で夢中になって観ていましたね。そうして、短期間でボクシングにのめり込んでいった僕は、11歳で将来ボクシングの道で生きていくことを決意。『世界チャンピオンになる』という夢を抱きました」
西岡氏は、小学校の卒業文集に『将来は世界チャンピオンになる』と記す。大業を成すべく、その視線は常にプロの世界だけを見つめていた。
「ボクシング業界では、アマチュアで少しずつ経験を積んでいってプロを目指すのが、セオリー。しかし、当時の僕はそういう仕組みをまるで知らなかったし、そもそもアマチュアの世界に一切興味がなかった。とにかく一刻も早くプロになりたかったし、世界を獲りたかったんです。所属していた当時のジムではそんな僕の熱を感じ取ってくれたのか、中学生になるとプロボクサー相手にスパーリングをやらせてくれましたね。さらに強い練習相手を求めて、姫路や明石、神戸、大阪などいろんな場所まで出稽古に連れて行ってもらいましたよ。他所に出向くのは練習とはいえ緊張しますし、僕にとってはまるで試合の感覚でした。
だから、回数を重ねて経験を積むごとに『俺なら必ずできる』という確かな自信につながっていったのです。そして高校3年生のとき、プロデビューを果たしました」
数々の苦難に見舞われたキャリア
1994年12月、17歳にしてプロデビューを果たした西岡氏。自他ともに認める「天才」として才気走るオーラを纏った若き獅子は、ボクシング界での将来を確実視されていた。だが、そのキャリアは決して輝かしいものばかりでなく、不運とも言えるいくつもの困難が待ち受けていた。
「デビュー戦は1ラウンドKO勝ちに収めました。ところが2戦目では、4ラウンドKO負けを喫してしまう。僕はそれまで、パンチをまともに受けたことがなかった。だからダウンした瞬間は、何が起こったのかが分からなかったんです。訳も分からず立ち上がる意識が全くなくなってしまい、仰向けになったままレフェリーをぼーっと見つめていましたね。リング上から担架で運ばれていった僕の姿は、周囲から自殺してしまうくらい落ち込んでいるように見えたようです。事実、初めての挫折でした。けれども負けた悔しさはあったものの、ボクシングをやめることは考えもしませんでした。むしろあの段階で負けを経験できたことが、それまでの自分を見つめ直すいいきっかけになったと思っています。すでに次戦のスケジュールは決まっていましたので、素早く気持ちを切り替えていきましたね」
その後、西岡氏はキャリア前半での敗戦を糧にさらなる成長を遂げていった。1998年に日本バンタム級王座を獲得すると、氏の歩みは着実に世界チャンピオンの座へと迫っていく。だが、世界の厚い壁はその躍進に「待った」をかけた。
「当時のWBC世界バンタム級王者は、ウィラポン・ナコンルアンプロモーション。彼の存在は、僕の前に壁となって大きく立ちはだかりました。2000年の初挑戦から2004年に行った4度目の挑戦まで、ついに彼からチャンピオンベルトを奪うことができなかった。世界チャンピオンの座にあと一歩の距離に迫りつつも、その一歩が果てしなく遠くに感じていましたね。
そんな中、2001年12月のことでした。予期せぬ大きなアクシデントが襲い掛かります。ウィラポンとの3度目の挑戦に向けてトレーニングの最中に、利き足である左足のアキレス腱を断裂してしまったんです。その瞬間、『やってしまった』と思いましたね。『プロボクサーが利き足のアキレス腱を断裂』。これが何を意味するのかは、今にしてみれば良く分かります。実際、周囲からは『引退では?』という声が上がりましたし、所属ジムの会長からも『応援するから、引退してジムでも開いたらどうだ』と言われるほどでした。
それでも、僕は諦めなかった。引退する考えは毛頭なかったし、『手術してしっかり治して、また頑張ろう』と、意外なほど冷静でいる自分がいました。会長の言葉も、僕を元気づけるために言ってくれた冗談だと受け取っていたくらいでしたから(笑)。
だけど、不運は重なりました。これは当時言えなかったことなのですが、実はリハビリ中に同じところを再び切ってしまったんです。せっかく手術してリハビリに励んでいたのに、再手術・・・。さすがに、もうボクシングを続けることができないのではという恐怖が募りました。
結局、ケガから完全復帰するのに5年もの歳月が掛かりました。ケガ自体はずっと前に治っていたんです。ただ、利き足に体重を掛けない歩き方をしていたリハビリ中の癖がいつまでも抜けなかった。頭では足が治っていることを理解しているものの、いざとなると体が無意識に避けてしまう。潜在的な部分で『怖い』と思っていたんでしょうね。本来のプレースタイルを取り戻すどころか体が思うように動かず、それまで格下と思っていた相手とのスパーリングでもぼこぼこにされていましたね」
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