巻頭企画天馬空を行く
「チームとして勝つため、優勝するための努力が
できるよう、意識改革に乗り出しました」
国内復帰、2度目のMVP
2012年にVリーグへ復帰した越川氏。その背景には、日本代表の選考をめぐるもどかしい思いがあったそうだ。
「本音を言えば、ずっと海外でプレーをしていたかったです。しかし、日本とイタリアとではシーズンのスケジュールにずれがあり、それが理由で日本代表のメンバーから漏れてしまうこともあって――五輪へ出るために海外へ行ったのに、海外にいることで代表選考が不利になるなら仕方がないと思い、国内復帰を決めました」
復帰1年目は古巣である「サントリーサンバーズ」でチームの勝利に貢献し、2年目からは「JTサンダーズ」へと活躍の場を移した越川氏。入団するにあたり、チームからはVリーグ優勝に対する熱い思いを伝えられていたという。
「私がサンバーズに所属していた頃から、サンダーズとはずっと優勝争いをしていて、とても強いチームというイメージを持っていました。しかし実際は、創部82年(当時)で1度も優勝したことがない、と。それで、優勝経験がある選手に来てもらいたいとオファーをいただき、移籍することになったんです」
そうして「JTサンダーズ」の一員となった越川氏は、チームの課題をすぐに見抜き、改革へと乗り出した。
「選手層だけ見たら、十分に優勝争いができるメンバーがそろっているのに、なぜか下位で停滞している。その理由は、実際にチームに合流するとすぐわかりました。一人ひとりは頑張っているものの、ただ頑張っているだけというか、チームとして勝つための努力、優勝するための努力が足りていなかったんです。なので、そこについての意識改革から始めることにしました。チームメイトも皆付いてきてくれて、移籍1年目で2位まで上がれたので、これは行けるぞ、と思って。2年目にはキャプテンを任せていただき、副キャプテンの助力もあって、見事にリーグ優勝を達成することができました。やはり、チームとして同じ方向を見て、勝つための集団になれたことが大きかったですね。個人でもMVPをいただけて、自分が今までやってきたことをチームにうまく還元できたのかな、と思います」
ビーチバレーで新境地開拓
「JTサンダーズ」では優勝請負人としての役割をまっとうした越川氏。2017年に退団を表明したが、同時に明かした新天地は、なんとインドアではなくビーチバレー。挑戦の背景には、やはり五輪への譲れない思いがあった。
「2016年のリオ五輪予選も、最終メンバーには残れず、代表自体が世代交代をしていく段階に差し掛かっていて、このままチャレンジを続けることに自分の中で疑問符が出始めたんです。それでも、五輪の舞台を目指すことは諦めたくない――そう思った結果、ビーチバレーという新しい舞台を選ぶに至りました」
同じバレーボールとはいえ、インドアとビーチでは、フィールドも人数も異なる。越川氏は、どのようにして競技に適応していったのだろうか。
「ビーチバレーをやっている人からは、『インドアの動きを砂の上でやるだけだから大丈夫だよ』と言われたのですが、それは自分の中ではしっくりこなくて。見た目的には同じパスやスパイクも、インドアとビーチでは考え方が異なるので、私はまったく違う競技なのだと解釈しました。同じことをするというよりは、自分が持っている技術を、ビーチバレーという競技に合う形へアジャストしていく感覚でしたね」
順調にビーチバレーへの理解を深めていた越川氏だったが、思わぬ形で競技続行が危ぶまれることとなる。東京五輪を目前にした2020年に、コロナ禍が訪れたのだ。
「試合はもちろん、練習さえ思うようにできなくなり、自分にとっては厳しい状況でしたね。本来は2020年に五輪本番を迎えるはずで、そこへ向けてやれることを最大限にやって、日本一になれるかどうか、という勝負をしていただけに、本番が1年延びた上に練習もできないとなると、ちょっと難しいのかなと。プロとしてスポンサーにサポートしていただいているのに、五輪を本気で目指せないというのは良くないと思い、すっぱりと方向転換することにしたんです」
引退はキャリアの一部でしかない
越川氏は、どんな困難に直面しようと、決して立ち止まらず、前を向いて自分が今できることをやり続けてきた。そんな同氏が次の居場所として選んだのは、2018年からVリーグに参戦し、V2からV1への昇格を狙う新進気鋭のチーム、「ヴォレアス北海道」だった。
「実は、東京五輪への道が閉ざされた時点で、競技者としては引退するつもりでいました。それで、次のキャリアを見据えた時に、私はクラブ運営やマネジメントに興味があったので、運営スタッフとして仕事をしつつ、国内でできる範囲でビーチバレーをやろうかな、という気持ちでヴォレアスにアポを取ってみたんです。すると、ヴォレアスからは『V1に昇格したいから、メソッドを持っている越川さんにはインドアの選手として来てほしい』とお答えいただいて。それを聞いた瞬間は正直、いいのかな、という感じでしたが(笑)、チームが勝つために必要なことを少しでも伝えられればと思い、入団させていただくことにしました。インドアのブランクについては、体を戻すのは少し大変でしたが、考え方の部分は以前にやっていた時と変わらないので、そこまで苦労しませんでしたね。むしろ、ビーチバレーを経験したことによって、インドアだけでは思い付かないアイデアが浮かぶようになって、それをプレーに落とし込む作業は楽しかったです」
2021年からは、選手として契約を更新しつつ、コーチ、チームディレクター、アカデミーアドバイザーとしても契約した越川氏。試合に出ながらチームマネジメントに携わった経験は、同氏にとってどんな価値があったのだろうか。
「ヴォレアスはまだ若いチームで、1年やってみた結果、選手側も運営側も、知識・経験が共に足りていない組織だと感じました。だからこそ、その両方の立場にまたがって私が持っているノウハウを伝えられたことはとても良かったですし、私自身、選手獲得のために大学のリーグ戦を見に行ったり、大学にアポを取ったりと、新しい経験をさせていただけたことが大きかったです」
そうして、自らが持つノウハウをすべてチームへ還元し、越川氏は2022年に現役引退を表明した。引退に際しての思いを問いかけると、同氏らしい、前向きな言葉を返してくれた。
「これまで本当にたくさんの人と出会えて、助けていただいたことで、やってこられた現役だったなと思います。自分の思いはもちろん、誰かの思いや期待も一緒に背負っていたから頑張れたのだと思いますし、支えてくださった方々には感謝しかありません。ただ、引退というのは人生のほんの一部であって、1つの区切りではありますが、何かの終わりではないと思っています。今までは私が現役で表舞台に立っていましたが、これからは、私が今までしていただいてきたことを次世代へ返していきたい。そうして、自分の新しい役割をまっとうすることができれば幸いです」
バレーボールを通じ人間力を育む
越川氏は今、(特非)みなとみらいクラブのシニアディレクターとして、地域の子どもたちへ向けたバレーボール指導を手がけている。同氏が見据える将来のビジョンを語ってもらった。
「日本はシニアより下の世代であるアンダーカテゴリが強くて、女子は世界一になるほどのレベルにあります。では、なぜシニアになった時に、アンダーカテゴリほど結果が出ないのか、五輪で勝ち上がれないのかというと、やはり育成方法に課題が残っているんじゃないかなと。もちろん一概に欧米の育成法が良くて、日本の育成法が悪いとは言えませんが、シニアになってからの伸び幅という面で考えると、向こうのほうが結果を出せているのは事実です。ですから、欧米の良い部分と、日本人に合う部分を融合させて、アンダーカテゴリの指導を行える組織を確立させたいと考えています」
また、越川氏はバレーボールの指導を通じて、競技のスキルだけでなく人間力を育むことも重要視しているという。
「私が高校時代の恩師から授かり、私自身も大切にしているのが、“暗いところに花は咲かない”という言葉。どんなきれいな花を持っていても、皆に見てもらって、応援される場所へ行かなければその花は開かない。だから、例えバレーボールでなくても、将来社会へ出た時にどこでも通用する、人から認めてもらえるような人間力・社会性を育んであげられればと思うんです。そうして子どもたちの育成に全力を尽くし、彼ら彼女らが日本代表選手になる頃、私も監督ができればそれ以上のことはないですね」
(取材:2023年11月)
取材 / 文:鴨志田 玲緒
写真:竹内 洋平
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