巻頭企画天馬空を行く
「粘り強く続ける過程で人は心をさらけ出し、
それがネタへの愛につながっていくんです」
人力舎への移籍と若手の育成
コンビとして一歩ずつ実績を積み上げていった2人だったが、1984年にサンミュージックが一度お笑いから撤退し、(株)プロダクション人力舎へ移籍することに。引き続きお笑い番組へコンスタントに出演していたものの、だんだんと停滞感を覚えるようになったという。
「人力舎へ移った頃から、芸人としての次の突破口がなかなか見つからないなと感じるようになりました。そこそこ食えてはいるけど、テレビでガツンと売れることもない、といった感じで。当時の社長からは、“コント師として名人芸を長く続けていけば良いのではないか”と言われたのですが、それだと収入はあまり上がらないな・・・と。そんな折に、人力舎が東京初のお笑い専門学校を立ち上げることになり、そこの専任講師をやってほしいという話をもらったんです。“吉本興業(株)が大阪でやっている「NSC」のような養成所を立ち上げるから、講師としての仕事を生活のベースにしながら、じっくり芸と向き合ったらどうか”と。私自身は、お笑いは人から教わるものでもないし、先生として教えるものでもないと思っていたので、最初はあまり乗り気ではなかったのですが、ちょうど子どもができたタイミングも重なり、生活のことも考えた結果、やってみることにしました」
家族のために、「仕事」として渋々始めた養成所の講師業。しかし、いざやってみると、自らの意外な適性に気付かされたそうだ。
「やるからにはちゃんとしたいと思って、ぶっちゃあと2人、見よう見まねでお笑いの基礎を生徒たちに教えていきました。その中で、意外と自分は教えるのが向いているかもと思うようになったんです。私はもともと耳が良くて人の話もよく聞きますし、割と何でもおもしろがれる性格なので、誰のどんなネタにも寄り添いながらアドバイスができるのかな、と。また、講師をする前から、関東の若手芸人がネタを披露するためのライブを主宰していて、事務所の垣根もなく人脈が広がっていたことも、後輩たちからの信頼につながったのかもしれません。作詞家である永六輔さんの言葉に“師匠とはなるものではなく、弟子がいるから師匠にさせてもらうのだ”というものがありますが、私にとってもまさしくそうで、自分を慕ってくれる後輩や生徒がいるから、私は講師をさせてもらえているのだと、そう思っていましたね」
芸への熱量が「愛」になる
そうして岡氏は、ぶっちゃあ氏と共に若手芸人の育成に注力するようになり、ダンディ坂野、東京03の飯塚悟志、アンタッチャブル、カンニング竹山などそうそうたる芸人たちを育て上げていった。指導において一貫して重視したのは、本人たちのネタへの熱量だ。
「私が指導でまず言うのは、“そのネタは自分たちでおもしろいと思っているのか?”ということでした。漫才でもコントでも、自分が実際に見たもの、聞いたものでおもしろいと思うことをネタにしないと、お客さんにはなかなか伝わらない。ネタづくりが煮詰まってくると、つい他人のウケているネタを模倣したり、小手先の技術に走ったりしてしまいがちですが、それよりも大事なのは、“こんなにおもしろいことがあるんです”という熱量を持って、自分たちのネタをお客さんに伝えようとすることなんです。これはお笑いの世界に限らず、例えば営業マンが成功するためにも必要な姿勢だと思います。自分が売る商品を本当に良いと思って、その魅力を一生懸命に伝えようとする。そうすれば、お客さんは少なくとも目の前の人が何をしに来たのかはわかりますよね。それが、心を開いてもらう足掛かりになるんです」
これまでに指導に携わってきた芸人の中でも、ブッチャーブラザーズの付き人として、1997年に岡氏とぶっちゃあ氏がサンミュージックへ復帰する際にも共に移籍したダンディ坂野にはとりわけ自身のイズムを叩き込んだ。狂気とも言えるほどの熱量をネタに注ぎ込ませることで、今や誰もが知る“あの芸”にたどり着いたという。
「ダンディ坂野とは、忘れもしない“ゲッツ千本ノック”という稽古をやったんですよ(笑)。“はいどうも~!”と入ってきて、“ゲッツ!”とやる。このたった3秒の動作を私とぶっちゃあも含め3人交代で、3時間半延々と繰り返して――最初は何もおもしろくなかったのですが、そのおもしろくなさがだんだんおもしろくなってきて(笑)。ポーズやタイミングもいろいろと試す中で、小話やジョークの後に、最後に“ゲッツ!”をやればいいんじゃないかというスタイルにたどり着いたんです。稽古の最後のほうはもう皆フラフラになっていましたが(笑)、そんな風に粘り強くやり続ける過程で、人は心をさらけ出すようになり、それがネタへの愛につながっていくんじゃないかと私は思っています」
サンミュージックは、それまでなかなか芽が出ずにいた芸人が所属した途端にブレイクすることから、「芸人再生工場」という異名で語られることも多い。才能を見いだす秘訣を訊ねてみると、やはりそこにも岡氏の理念が根付いていた。
「うちに来てブレイクできる芸人は皆、もともと素質というか、おもしろいものを持っているんです。ただ、それが伝わっていないだけ。そこには見た目だったり声だったり、セリフの言い回しだったりといろいろな要素がありますが、どうやったら伝わるかという部分に焦点を当ててネタをいじっていくと、意外とすぐに結果につながるんですよ。カンニング竹山は、もう事務所を辞めるしかないという背水の陣の状態から、きっかけをつかむと一気に上がりましたし、最近だと、ぺこぱはたった半年でブレイクしました。ピン芸人ではスギちゃんの成功が大きかったですね。彼もマニアに受けそうなネタはもともと持っていて、伝わったら受けるだろうなと思っていました。私たちはきっかけを与えて、あとは本人がチャンスをつかんでいくだけなんです。そのためには、すぐにネタを変えるのではなく、やはりそのネタに愛を持って粘り強く取り組むことが大事。つまり皆、千本ノックをやらないと駄目だということですね(笑)」
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