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元サッカー日本代表 / NHKサッカー解説者 福西 崇史

元サッカー日本代表 /
NHKサッカー解説者
福西 崇史

 
1976年、愛媛県新居浜市生まれ。小学校4年生の時にサッカーを始める。新居浜工業高校在学中に対戦相手チームの選手を見に来たスカウトにその才能を見いだされ、1995年にジュビロ磐田に入団。フォワードからボランチへの転向が実を結び、チームの中心選手として活躍した。1995~2006年にジュビロ磐田、2006~2007年にFC東京、2007~2008年に東京ヴェルディに在籍。この間にJリーグで通算4度のベストイレブンに輝く。日本代表としては、2002年の日韓ワールドカップ、2006年のドイツワールドカップ出場を始め、数々の国際大会で活躍した。2009年1月に現役を引退した後は、NHKサッカー解説者として活躍中。2016年3月にJリーグの特任理事に就任し、同年11月にはJFA公認S級コーチの資格を取得した。サッカー教室、講演会、メディア出演など、多方面でサッカー普及のための活動を続けている。
 
 

1995年にプロデビューを果たして以降、「チームの心臓」と言えるボランチのポジションで活躍し、Jリーグで4度ベストイレブンに選ばれ、また2度のワールドカップにも出場したのが福西崇史氏だ。現役時代は、鋭い戦術眼と闘志あふれる激しいプレーで多くのサッカーファンを魅了した福西氏。サッカーリテラシーの高さに定評がある同氏に、長年ボランチでプレーしたことで得たものや、組織の中で自分を生かすための方法、日本代表に対する提言などを、サッカー解説さながらの明晰かつ情熱的な口調でたっぷりと語ってもらった。

サッカーを始めたのは小学校4年生の時

現役時代は日本有数のボランチとしてプレー。黄金期のジュビロ磐田や、日本代表で活躍し、現在はサッカー解説者として的確で落ち着いた語り口に定評がある福西崇史氏。同じボランチとして日本代表で共にプレーした遠藤保仁氏をして、「福西さんの『サッカーを観る目』はどんな人よりも確かで本質を突いている」と言わしめるほどサッカーを熟知した同氏だが、プロサッカー選手としてはサッカーを始めた時期が早いわけではなかった。

「私は、幼稚園から中学生まで器械体操をしていました。サッカーとの出合いは小学校3年生の時で、友達から『サッカーをやろう』と誘われたのがきっかけです。実際にやり始めたのは4年生の時からで、通っていた小学校にあったサッカースクールに入りました。最初のうちはサッカー自体というより、皆で一緒になって何かをすることが楽しかったんです。子どもの頃から体を動かすことが好きでしたね。サッカーに本格的に打ち込むようになったのは、中学生になってからでした。それまでは器械体操をやりながらサッカーをするという形でしたが、中学校に入りどちらかを選ばなければいけない状況になったので、サッカーを選んだんです。器械体操をやっていたおかげで体が柔らかくなっていましたし、それはプロになってからも変わりませんでした。今でも体は柔らかいほうだと思います」

スカウトをきっかけにプロの道へ

その後、福西氏は高校3年生の時に、インターハイ県予選の準決勝で対戦相手だった南宇和高校の選手を視察しに訪れていたジュビロ磐田のスカウトである石井知幸氏の目に留まり、プロ入りの機会をつかむことになる。

「日本初のプロサッカーリーグであるJリーグが開幕した1993年に、私は高校2年生でした。サッカーをやっている人間として、せっかくプロリーグができたのだから、将来はプロになりたいという漠然とした思いを持っていましたね。高校を卒業して社会人になるにせよ、あるいは大学に進学するにせよ、レベルが高いところでプレーをしたいという気持ちを抱いていたので、スカウトの話を聞いたことで目の前に道が開けたような感じがしました。率直に言って嬉しかったですね。ただ、プロになりたいという願望があった一方、当時はまだ現実的に自分がプロになれるとは思っていなかったので、スカウトの話が進むにつれて『本当に大丈夫なのだろうか?』という懸念も抱くようになりました」
 

ボランチのお手本となったドゥンガ選手

そして高校卒業後の1995年に、ジュビロ磐田に入団。高校までフォワードでプレーしていた福西氏は、ハンス・オフト監督に勧められてボランチにコンバートすることになる。攻撃的なフォワードから守備的なボランチへとポジションが変わることに対する、戸惑いや抵抗のようなものはなかったのだろうか?

「実際のところ、フォワードからボランチへのコンバートというのは珍しいケースだと思います。ポジションが変わることで結果的にうまくいくケースもありますが、当時は自分がボランチでプレーするイメージはまったく思い描いていませんでした。それまでずっとフォワードで攻撃的なプレーしかしていなかったものですから、中盤の底でゲームメークを任されるという状況は考えてもいませんでしたね。ただ、抵抗はありませんでした。この先プロで生き抜いていくためにフォワードでは通用しないのではないかという危惧もあったので、まずは与えられたポジションでやっていこうというのが大前提だったんです。とはいえ、不安でいっぱいでしたね(笑)。そんな中で大きな影響を受けたのが、チームメートだったドゥンガ選手です。当時の世界王者だったブラジル代表のキャプテンにして1994年のワールドカップで大会ベストイレブンに選出された彼のプレーは、私ももちろんテレビで見ていました。それまでは当然ながら、ピッチ上のドゥンガ選手の姿しか知りませんでしたが、チームメートとして、また同じボランチとして一緒にプレーすると、やはり『すごい選手だな』と感嘆しましたね。その時の私にはまだボランチに関する知識がほとんどなかったので、まさしく身近にお手本となる存在がいるという感じでしたし、若くして世界のトップ選手のプレーを肌で感じることができたのはものすごく大きな経験でした。また、私の資質を見抜いてボランチにコンバートしてくれたハンス・オフト監督からも、今で言う『アイコンタクト』や『トライアングル』などを教わり、プロ1年目でサッカーの奥深さを知ることができたんです」

ボランチでプレーする醍醐味と難しさ

ボランチへのコンバートが転機となり、福西氏はプロ1年目から数多くの試合に出場。その後、名波浩選手や中山雅史選手、藤田俊哉選手らとともにジュビロ磐田の黄金期を築くことになる。そんな同氏が、試合中に最もサッカーをすることの喜びや手応えを感じたのはどのような場面だったのか。

「ジュビロ磐田に入団して最初の頃、私はチームの中心選手というわけではありませんでした。名波選手や中山選手、藤田選手らチームの核となっていた先輩方がいらっしゃる中で自分はどう生き抜いていくか、プレーしていくべきかということはいつも考えていましたね。フォワードだった頃と比べると得点の回数は減ったにせよ、ボランチでは得点をすることもできれば守備もできるし、ゲームもコントロールできる―要するに、試合の中で何でもやれるというのが自分の中では1つの喜びとしてありました。自ら判断していろいろなことができるけれども、その一方で自分勝手なプレーをするとチームのバランスが崩れてしまう。その辺りがボランチというポジションの難しいところであり、同時に醍醐味でもありました。私は足が遅いし、体力もあまりない選手であることを自覚していたので、常に頭を使いながらプレーをすることが大事だったんです。その点でも、私と同じように体力がなく足も遅いドゥンガ選手のプレーは大いに参考になりました。彼はトリッキーなプレーはしないのに、ものすごくうまいんですよ。そうしたタイプの選手が世界のトップに立つというのはどういうことなのか。彼の存在感を間近で感じながら、その理由に気付いていくプロセスが自分の中では重要でしたね」


 

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