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野球評論家   鳥谷 敬

野球評論家
鳥谷 敬

 
1981年6月26日生まれ。東京都東村山市出身。小学生から野球を始め、柔道との掛け持ちで練習に打ち込む。中学時には両膝の成長痛に苦しみ、一時は野球を辞めることも考えたが、父に慰留され聖望学園高校へ進学。3年夏には遊撃手兼投手としてチームを初の甲子園出場に導く。プロ入りを見据えて進学した早稲田大学では、2年春に三冠王、3年春~4年秋までリーグ戦4連覇など輝かしい成績を残し、2003年のNPBドラフト会議で自由獲得枠を通じて阪神タイガースに入団。2年目の2005年には正遊撃手に定着し、チームのリーグ優勝に貢献する。その後も走・攻・守がそろったユーティリティプレーヤーとして試合に出続け、遊撃手として歴代最長となるフルイニング出場記録(667試合)、歴代2位の連続試合出場記録(1939試合)、2000本安打・1000四球などの金字塔を次々と打ち立てる。2020年に16年間プレーしたタイガースを離れ、盟友・井口資仁が監督を務める千葉ロッテマリーンズへ移籍。2021年シーズン終了後に引退を発表し、現在は野球解説者・野球評論家として活動している。

遊撃手兼投手として甲子園出場、大学では三冠王とリーグ4連覇、阪神タイガースに入団してからは正遊撃手の座を守り続け、同ポジション歴代最長のフルイニング出場を記録――野球人・鳥谷敬の歩みは、そのキャリアだけに目を向けるとエリート街道まっしぐら、順風満帆そのものに見える。しかし、「プロを目標とした瞬間に、明確に野球が楽しくなくなった」と断言する同氏は、常に己の成績・役割と真摯に向き合い、どうすればプロの世界で長く現役を続けられるかを考えながら、自らの力で自らの立場を築いてきた。「野球は仕事」という言葉に込められた哲学と、背景にある野球愛、その先にあるものへ光を当てるインタビュー。

“特別”ではなかった少年時代

 

2021年10月、18年の長きにわたって日本プロ野球界をけん引してきた1人の男が、現役生活に終止符を打った。鳥谷敬――遊撃手として歴代最長となるフルイニング出場記録(667試合)、2000本安打・1000四球をはじめ、数えきれぬほどの金字塔を打ち立ててきたスター選手、その人である。走攻守すべてがそろったユーティリティプレイヤーとしての華やかさと、常に冷静沈着で自らの仕事を確実にこなす職人気質な部分を併せ持ち、その安定性と総合力の高さゆえに、長年在籍した阪神タイガースではもちろん、球界全体で見ても「歴代屈指の遊撃手」と評する人も少なくない。しかし、そんな同氏にあらためて自身の野球人生を振り返ってもらうと、その始まりは意外なほど「普通」なものだった。

「野球を始めたのは小学3年生の頃ですが、実はそれより先に柔道をしていて、東京都大会でベスト8に入ったこともありますし、正直、当時はそっちのほうが周囲から期待されていたと思います。ただ、個人競技の柔道と比べて、チームスポーツの野球は勝ち負けの責任を1人で追わなくて良いし、皆で集まって楽しく練習できる環境が性に合っていたのか、少しずつ野球のほうに引かれていったんです。観戦も好きで、当時ファンだった埼玉西武ライオンズの「友の会」に入って、暇さえあれば無料開放されていた外野席で試合を観ていました。憧れだった秋山幸二さんのバク宙を見たくて(笑)。そんな風に、小学生の頃はただただ楽しくて野球をやっているという感じで、他の子よりうまいとか、上達していく感覚はほとんどなかったですね」

結局、中学に上がるまでは柔道と野球の「二足のわらじ」を続けた鳥谷氏。やがて野球一本に絞ってやっていく決心を固めるが、そこで思いもよらぬアクシデントに見舞われることになる。

「僕はもともと左利きなのですが、字は右に矯正して、野球も小学生までは右投げ右打ちでした。それが、中学1年生の終わり頃に、左手で箸を持って食事している僕の姿を見た監督から急に左で打ってみろ、と指示されて。当時はちょうどイチローさんや高橋由伸さんのように、左打ちで活躍する選手が多く出てきている時期で、“俊足の選手は左打ち”という流行もあったのだと思います。しかし、いくら元が左利きとは言え、ずっと右で打ってきたものをいきなり左に変えてすぐ打てるほど、野球は簡単ではありません。転向してから1年くらいは、ボールをバットに当てるのすら難しい状況が続きました。また、急激に身長が伸びたことで成長痛が出てしまって――右膝、左膝と交互に痛くなったせいで、それからは運動そのものがまともにできませんでした。正直、その頃はまったく野球が楽しくなかったですね」

左右転向に成長痛、度重なる困難に挫けかけた鳥谷氏は、高校進学を前に「野球を辞めたい」と考えるほど落ち込んでいたという。しかし、そんな同氏を踏みとどまらせたのは、父の言葉だった。

「サッカーや他のスポーツへの興味もありましたし、何より野球でうまくいかないことに少し嫌気が差していたため、高校へ行く前に辞めようと思っていることを父に話したんです。すると、『ずっとやってきたんだから続けたらどうだ、入った後に辞めることもできるから』と慰留されて。父は厳しい人でしたが、普段は寡黙でこちらから聞かなければ何も言わない性格だったので、その言葉を重く受け止めて続けることにしました。実は、父は僕の練習や試合をずっと見ていて、“野球なら成功するかもしれない”と思っていたということを、プロになってから聞かされましたね。
 聖望学園高校に進学してからも、夏くらいまでは引き続き成長痛で満足に練習できなかったり、2年生時にはピッチャーもやることになって連投で肩を痛めたり、思い通りにいかないことは多々ありました。それでも、焦ることなくしっかり治してその時にできることをしよう、と苦境の中での心構えを育めたのは良かったですね。走れないなら腕のトレーニングを、逆に投げられないなら走り込みをする。その結果、3年生になる春にピッチングを再開した時には球速が13キロくらい上がっていて、そこで初めてプロに行けるかも、と思いました」

早稲田大学で三冠王と4連覇を達成

自らの明確な成長を確信した鳥谷氏は、その感覚の通り、遊撃手兼ピッチャーとして獅子奮迅の活躍を見せ、チームを初の甲子園出場にも導いた。残念ながら本大会では1回戦敗退となったが、そこで芽を出した才能は、早稲田大学進学後にさらに大きく開花することになる。

「高校までと大学からで、一番変わったのは練習の量です。1年生から試合に出て、日々の練習もこなして、というのを年間通してやっていると、それだけで6、7kg痩せてしまうくらい、ハードでした。そこで、オフシーズンにどうやって体を元に戻すか、鍛えるかということを考えながらトレーニングをするようになったんです。ちょうど、在籍していた学部でもスポーツ学を専攻していたので、理論についての勉強もでき、結果的に10kgくらいの増量に成功して――そこから一気に野球の成績が良くなっていきました」

当時、早稲田大学には鳥谷氏の他にも、1つ上の学年に和田毅氏(現・福岡ソフトバンクホークス)、同期に青木宣親氏(現・東京ヤクルトスワローズ)など、後に日本プロ野球界を代表する選手となる逸材がそろっていた。そうした環境で切磋琢磨できたことも、自身が大きく成長する要因だったと鳥谷氏は話す。

「一学年上の先輩たちがプロへ行く姿を見て、プロ野球との距離感をつかめたというか、自分にとっても現実的な目標として認識できたのは大きかったと思います。対戦している他の東京六大学の選手を含めて、どのくらいのレベルならプロになれるのか、そのためにどんな練習が必要なのかが明確になりましたから。ちなみに、そんなプロ候補の中でも和田さんは別格でした。同じチームなので対戦はしませんでしたが、後ろを守っている時でさえ、他のピッチャーとは明らかに違う存在感を放っていて。僕自身は、2年生の春に三冠王を取れたタイミングで、プロ行きの切符は多少見えたかな、という感じでしたね。そこからは、いかにドラフトの順位を上げるかを考えながら、打率や安打数といった“数字”と向き合う作業が始まりました。自分にとっての野球が、はっきりと楽しいものではなくなったのは、その頃ですね」

野球が楽しくなくなった――これからプロの世界に身を投じていく選手が発するには耳を疑いたくなるような言葉だ。しかし、そこにこそ野球人・鳥谷敬の原点となる哲学が隠されている。

「僕の中では、野球を仕事として考え始めた瞬間に、必要なことを考えてやっていくという作業を苦もなく続けられるようになっていったので、この思考転換はかなり重要な出来事でした。その後、和田さんと一緒に福岡ダイエー(現・ソフトバンク)ホークスの春季キャンプに参加させてもらったのですが、秋山幸二さん、松中信彦さん、井口資仁さん、城島健司さん···といった超一流の先輩たちのバッティングを目の当たりにしてさらに衝撃を受けて。このままでは通用しない、と目標のレベルが一段上がり、日々の練習に対する姿勢も大きく変化していったんです。そうして、3年春から4年秋までのリーグ戦では大学史上初の4連覇を達成し、個人でもすべての学年で全試合先発出場、ベストナイン5回、三冠を含む首位打者2回など、充実の成績で大学生活を終えることができました」

 

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