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野球評論家 /前読売巨人軍監督
高橋 由伸
千葉県出身46歳。桐蔭学園高等学校では1年夏、2年夏に甲子園出場し、慶應義塾大学に進学。大学8シーズン全試合をフルイニングで出場、4年時には主将として優勝に貢献。三冠王獲得、通算23本塁打の東京六大学新記録を樹立するなど、神宮球場で数々の記録を打ち立て、97年ドラフト1位で巨人軍に入団。新人年から開幕スタメンを勝ち取り、巨人では長嶋茂雄氏以来となる新人打率3割をマーク。以降は松井秀喜氏(元NYヤンキース)らと共に球界を代表する選手としてチームをけん引。04年にはアテネ五輪にも出場し、日本の銅メダル獲得にも貢献した。15年現役引退と同時に、読売巨人軍第18代監督に就任。3シーズンの指揮を執り、19年から野球評論家として新たな道を歩んでいる。
ドラフト1位で巨人に入団し、監督時代も含めて21年間、巨人一筋に野球人生を歩んだ高橋由伸氏。入団時から長嶋茂雄氏に「天才」と称賛され、鮮烈なデビューを飾って以降、プロ野球を代表するスター選手の1人として活躍した。だが他方で幾度もケガを経験するなど、その道のりは決して順風満帆というわけではなかった。野球人生の転機を迎えていた時期の心の内や、自身が考える「プロ野球選手の在り方」、同氏も高く評価する大谷翔平選手のことまで、「人格者」という形容が似つかわしい至誠あふれる言葉で語ってくれた。
勝ち続けるには常に軸となる選手が必要
セ・リーグで3位、クライマックスシリーズでは東京ヤクルトスワローズに敗れて日本シリーズ進出を逃した2021年度の巨人。インタビューの最初に、まずは2021年シーズンの巨人の戦いぶりについての感想を聞かせてもらった。
「2021年の巨人を見ていて、ある程度の結果を残してもらわないとならない選手がしっかり活躍できないと、最後はああいった残念な結果になってしまうのかな、と感じました。例えば、レギュラーメンバーの中にケガ人がいると、当然、チームとしても思うような成績が残せません。主力となる選手たちがちゃんと試合に出場できたうえで、はじめて新たな戦力も伸びてくると思うので、やっぱりチームの軸なくしては長いシーズンを勝ち切るというのは難しいのだなと、改めて実感しました。常に新たな軸となる選手が生まれてくるような好循環を生み出さなければ、組織として長く勝ち続けるのは難しいのかなと思います」
遠い世界のことに感じていたプロ野球
監督を務めた3年間を含めると、プロになってからの21年間、巨人一筋に野球人生を歩んだ高橋氏。その原点である野球との出合いはどのようなものだったのだろうか。
「都会育ちと思われがちですが、子どもの頃、私が暮らしていたのは千葉県の田舎町。周りには同世代の男の子がいませんでした。隣近所というのがとても離れた場所でしたので、小学校に入学して少年野球チームに入るまでは、遊びというと両親や年の離れた2人の兄と野球をするくらいしかなかったんです。父が高校まで野球をやっていたこともあり、自然と野球に親しむようになっていきましたね。その一方で、中学や高校の時には友達が野球以外のことで遊んでいるのを見てうらやましく思う場面もあったんです。それが大学生になると、周囲もある程度大人として扱ってくれる部分も増えてきましたし、『野球と学業とそれ以外』をきっちり分けながら、野球に取り組めるようになっていきました。そういう意味では、1年中野球のことばかり考えている『根っからの野球少年』というタイプではなかったかもしれませんね。プロ入りを明確に意識し始めたのは大学2年生の頃だったと思います。子ども時代、テレビをつけるとよくプロ野球の試合を放送していましたが、当時は自分とは遠い世界のことだと感じていたんです。ただ、高校・大学の先輩だった高木大成さんのような身近な人がプロ入りしたり、同世代の選手が自分より先にプロになって活躍し始めたり、大学の後藤寿彦監督(当時)から『能力があるのにプロにならないのはもったいない』と言われたりして、プロ野球選手という選択肢を徐々に意識するようになりました」
実績のない自分を使ってくれた長嶋監督
1997年に、ドラフト1位(逆指名)で巨人に入団。プロ1年目は126試合に出場し、セ・リーグの新人としては長嶋茂雄氏以来40年ぶりとなる打率3割超え、さらに19本塁打、75打点という新人離れした成績を残した。その要因は何だっだのだろうか。
「それが今でもはっきりとした理由はわからないんですよ。私が巨人に入団した時というのは、松井秀喜さんや広澤克実さん、清原和博さんといった素晴らしい選手が何人もいました。そんな中で長嶋監督がまだ実績のない私を起用してくれたのが大きな要因だったかもしれません。『まずは使わないとうまくならない』という監督の考えに加え、どこかで私に可能性を感じて起用してくださったのだと思います。選手としてはいくら実力があっても、試合に出て結果を残すチャンスをもらえないとどうにもなりませんからね。多少の実力はあったと思いますけれども、1年目から良い結果を出せたのは、正直なところ、使う側の理解や我慢をしてもらえた運も大きかったのではないでしょうか」
「2年目のジンクス」は感じなかった
プロ入り2年目、高橋氏は1年目からさらにグレードアップした成績(打率315、本塁打34、打点98)をマークする。新人からの2年連続3割達成は長嶋茂雄氏、横田真之氏、坪井智哉氏に続く4人目。同氏はいわゆる「2年目のジンクス」というものは感じなかったという。
「『2年目のジンクス』に関しては、不思議なことにほとんど感じませんでしたね。自分ではまったく意識もしませんでしたし、プレッシャーもなかったんです。むしろ、なぜプロ野球選手には『2年目のジンクス』という言葉が存在してしまうのだろうと思ってしまう自分もいます。当然、相手もその選手のことを研究するために生じるものなのでしょうけど、どうして去年できていたことが突然できなくなってしまうのだろうか、と。ただ私の場合は、ある意味で3年目に最初の壁は訪れたのだと考えています。おそらく、前よりもさらに良いプレーをしようと無理に変化してしまうからこそ、いわゆる『2年目のジンクス』のようなものに突き当たるのでしょうね。確かに選手にとって、遅かれ早かれ変化をすることは必要になってきますし、そこから這い上がることができれば、壁に突き当たること自体は決して悪いことではありません」
プロ10年目で野球に対する姿勢に変化が
デビューしてまもなく、松井秀喜選手や清原和博選手とクリーンナップを結成し、2000年、2002年にはチームの日本一に貢献。だがその一方で高橋氏は、全力プレーによって守備中に生じたケガに悩まされるようになる。2005年、2006年はそのケガにより不本意な成績に終わったものの、プロ10年目の2007年には主に一番打者として133試合に出場し、キャリア最高となる35本塁打を記録。シーズン先頭打者本塁打9本のプロ野球記録も達成するなど、チーム5年ぶりのセ・リーグ優勝に大きく貢献した。
「2007年は、打席への取り組み方が大きく変わりました。その前の数年間、不本意なシーズンが続き、自ら変わらなければといけないと感じていた時期に、偶然なのか意図的なのかチーム事情なのか、打順が一番になることで変化ができたのは私にとって非常に大きかったですね。今までは『自分がこういうことをすれば壁を乗り越えていけるのではないか』とだけ考えていましたが、『試合に出るためにはその中で削らなければいけない要素があるかもしれない』と考え直すようになったり、『結果を出すためには相手を深く知ることも必要なのではないか』と熟考するようになったりして、野球と向き合うスタンスが変わり始めました。それが結果として、良い成績を残すことにつながったのだと思います」
野球人生で初めてサブメンバーを経験
先述したような守備中に生じたケガや、持病の腰痛の影響もあり、次第にスタメン出場の機会が減っていった高橋氏。だが2014年に代打で打点17をあげ、2015年には代打出塁率489という驚異の数字を残すなど、「代打の切り札」としてチームに不可欠な存在となっていった。代打として試合に出場する際の心構えはどのようなものだったのだろうか。
「これまでの野球人生で、初めてスタメンではないサブメンバーという経験を味わいました。その時にいろいろなことを気付かされたり、考えさせられたりする時間というものがあったんです。正直、若い頃は『レギュラーでなくなったら野球をやめるだろうな』と思っていましたが、自分自身が変化をし始めた時期と重なったせいか、これまでとは異なる視点で野球を捉えることができ、違った形で野球に取り組むことができるようになりました。以前とはまた異なるアプローチをすれば、自分がチームに貢献できる場所があるかもしれないと考えるようになったんです。私にとっては必ずしも良い時期とは言えなかったでしょうが、いろいろと思案したうえで変化できたことが代打としての好成績につながったのだと思っています。今となっては、そのような経験を次に生かせるのであれば、苦しい時を味わうのも悪いことばかりではないな、と感じますね」
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