巻頭企画天馬空を行く
まるで青森ねぶた祭のようだった東京
11歳の年齢差がある畑山氏と一戸氏だが、2人とも青森から上京したのは10代の時。畑山氏は「これで成功できなければ人生終わり」というほどの意気込みだったという。当時の東京の印象はそれぞれどのようなものだったのだろうか。
畑山 私は子どもの頃は野球少年でした。家が裕福ではなかったので、将来はプロ野球選手になって、父に家を建ててあげようと思っていたんです。それで小・中学校時代はエースとして活躍し、スポーツ推薦で青森山田高校にも入学しましたが、その野球部は先輩との上下関係が厳しく、また理不尽なことも多いので嫌気が差してしまったんです。そんな時に辰吉丈一郎選手の試合を見て、「自分にはボクシングのほうが合っている」と感じました。ボクシングの世界チャンピオンになればお金も稼げるだろうし、「俺が世界チャンピオンにならないで誰がなるんだ」というくらいの気持ちでしたね。ただ、当時高校にボクシング部はなく、青森市内にもボクシングジムがなかった。ボクシング雑誌を読むと、成功したボクサーの多くは高校からボクシングを始めてすぐに頭角を現し、10代のうちにプロの道に進む人が多かったんですよね。そのような現実を知るにつれ、高校を卒業してからボクシングを始めたのでは遅いんじゃないかと考えたんです。そう思うと居ても立っても居られなくなり、上京するための資金を稼ぐために2ヶ月ほどガソリンスタンドで朝から晩まで働いた後、高校を辞め、電車に乗って上京しました。
一戸 なるほど。そのようにして畑山さんのボクサー人生は始まったのですね。私は上京した際、最初に上野へ行きました。その時は平日でしたが、ねぶた祭をやっているのではないかというくらいの人の多さに驚きましたね。
畑山 実は私も同じことを思いました。「ねぶた祭か、これは?」と。当時は東京駅で電車を降りた記憶があります。しかも夕方のラッシュ時だったので、人がすごいんですね。一瞬、「この人たちは全員、自分の敵なんじゃないか」と思ったほどです(笑)。とんでもない所に来てしまったな、という心境でした。
一戸 同感です。何もかもが青森とは違うし、それまでは実家にいたので、親がしてくれていたことをすべて自分がやらなければならないという大変さもありました。それから、水道代など自分が知らなかった出費がことのほか多いことにも苦労を感じましたね(笑)。
ボクシングには高度なスキルが必要
畑山氏と一戸氏の共通点の1つは、子どもの頃からスポーツ万能だったことだ。畑山氏は野球少年として活躍し、一戸氏も野球、水泳、相撲などどんなスポーツも器用にこなしていたという。そんな中で2人は、ボクシングとムエタイを選んだ。改めて、競技としてのそれぞれの魅力を語ってもらった。
畑山 ボクシングはキックボクシングと違って、2本の腕だけでオフェンスとディフェンスをこなさなければいけない格闘スポーツです。もちろん、攻撃のバリエーションが多彩な競技もおもしろいと思います。ただ、腕のみが武器のボクシングはそれとはまた異なる高度なスキルが要求されるんです。派手さはありませんが、その点が最大の魅力ではないでしょうか。
一戸 一番は気持ちと気持ちのぶつかり合いですかね。ムエタイを実際に目にすると、おそらく映像で見るのとは別次元のように感じるのではないかと思います。近くで試合を見ると、選手の気迫やオーラのようなものが伝わってくるはずです。そういったテレビには映らない部分が私は好きですね。気持ちで戦っている選手というのは生で見ればわかりますし、彼らの試合は見ていて本当におもしろい。私は普段パンチだけを使って練習をすることもあります。そんな時、ボクシングはとても難しいと感じますね。畑山さんがおっしゃる通り、手しか使えないのでごまかしが利かないんです。ムエタイのように疲れたからといって試合中に相手をつかむことはできませんし、そもそもパンチを相手に当てるということ自体が高度な技術だと思います。また畑山さん個人に関して言うと、フルラウンド、インターバルが終わるごとに走って戻り、すぐに戦闘態勢に入るところが本当にすごいと感じていました。
畑山 あれをやると疲れます。ただ、相手のほうがよりプレッシャーを感じ、メンタル面で疲弊すると思うんですよね。「何だ、こいつはまだこんなに元気があるのか」と(笑)。だから、わざとそのように振る舞っていました。特にあのパフォーマンスは試合の後半になればなるほど効いてくるんですよね。露骨に嫌な顔をする相手もいましたから。
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