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事業拡大に注力
1991年1月、永田氏は2代目社長に就任した。その後の6年間は父親の次雄氏が会長職を務めていたが、1997年9月、次雄氏は70歳になると退職し、永田氏が最高経営責任者であるCEOに就任した。永田氏は39歳になったばかりの時だった。
「自分の判断で会社を運営できるようになってからは、事業をどんどん拡大させてきました。それまでの当社は、医薬品開発の基礎研究部分である前臨床試験や臨床薬理試験を受託するだけの会社でした。私がCEOになってからは、医薬品開発の臨床後期試験の受託や、さらにその上流域となる創薬基盤技術を開発するトランスレーショナルリサーチ(TR)事業、そして再生医療分野なども包含してきました。また、鹿児島の一企業から脱却すべく、和歌山に薬物代謝分析センターをつくったほか、海外にも進出しました。アメリカでは、シアトル、ボストン、ボルチモアに研究所や病院を設立しましたし、中国にも実験動物の繁殖をする企業を起こすなど、グローバルな展開も推進してきています。その間に当社はマザーズを経て東証一部に上場し、2008年までの10年間で社員数はCEOに就任した当時の10倍くらいに伸びました。まさに、飛ぶ鳥を落とす勢いでしたね」
FDAからの業務改善命令
順調に事業規模を拡大していたSNBLだが、海外事業で思わぬトラブルを抱えることになる。
「2010年8月に、アメリカのワシントン州シアトルにある子会社の『SNBL USA, Ltd.』がアメリカ政府機関である、FDA(Food and Drug Administration:アメリカ食品医薬品局)から、GLP(Good Laboratory Practice:医薬品の安全性に関する非臨床試験の実施の基準)について改善指示を受けてしまいました。実は2008年から2度にわたり、FDAからは改善の指摘を受けていました。でもそれは、提出している報告書の中のサインの順番が違うというものでした。単に、クライアントのサインが先か、当社のものが先かというだけの違いです。その順番は習慣としてなかなか変えられないものですし、実際、業界では当たり前に行われていることでした。それでも、改善指示を受けてしまった。
そこからは大変でした。改善指示を受けたということは、改善されたと認められるまで、クライアントから仕事を受託できなくなりますからね。役員からは、子会社を閉鎖しようという意見も出ました。ただ、アメリカで研究所を設立することは、私が25歳の頃からの夢で、15年後の40歳の1999年に『SNBL USA, Ltd.』の研究所をシアトルに建設したのです。自分の夢をかなえた研究所でした。2010年当時、社員は500人近く抱えていましたし、設備投資も100億円ほどしている。だから、私の中では閉鎖はあり得なかったです。何より、社員を解雇することになりますからね。
それで、銀行に相談をして融資を受けて改善に努めました。その努力がFDAに認められたのが、2013年の夏です。そこから新規契約は受託できるようになりはしましたが、事業は急激には回復しません。何とか黒字化に成功したのは2018年の7月でした。この間の累積赤字は160億円にものぼりました。先の見えないトンネルをほふく前進で這っているようなつらい8年間でしたね」
がんを治せる医師になりたかった
永田氏はFDAに改善指示を受けた際、アメリカの子会社の改善のみに注力していたわけではない。並行して国内では「メディポリス指宿」構想として推進されてきた「メディポリス国際陽子線治療センター」の建設に向けて動いていた。
「『メディポリス指宿』を構想するきっかけとなったのは、厚生労働省所管の年金資金運用基金が保養施設としてつくったグリーンピア指宿跡を購入してほしいという話を県庁や市長の方から頂いた、2002年にまでさかのぼります。一度はお断りしたものの、指宿市長に何度もお願いをされましてね。上場を控えていた当時のSNBLがここまで大きくなれたのも地元、鹿児島のおかげでもある。だから恩返しをしようという思いで入札に参加し、政府が230億円掛けてつくった100万坪を超える広大な施設を6億円で譲り受けました。
荒れ放題の跡地を何に利用するかと考えたときに、鹿児島大学から、『最先端のがん治療センターにしましょう』という提案がありました。しかも、がん治療の中に、陽子線治療というのがあることを知りました。それでアメリカにある陽子線治療の施設を見学に行きました。陽子線治療であれば手術をしなくてもがんが治せると知って、驚きましたね。私は新しいもの好きなので、その治療装置が欲しくなったのですよ。この装置を稼働する施設があれば、外科医にならなかった自分でも、がんを治せると思いました」
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