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Challenge+(チャレンジプラス)

巻頭企画天馬空を行く

強いと思える瞬間を探し求めて

一度破れた相手に勝利して自信を付けた長谷川氏はその後、東洋太平洋王座を獲得。3度の防衛を経て王座を返上し、ついに世界チャンピオンへの挑戦権を得た。その時の対戦相手が、14度連続防衛中の強豪、ウィラポン・ナコンルアンプロモーションだった。

「ウィラポンは僕がデビューしたての頃、あの辰吉丈一郎さんに勝ってWBC世界バンタム級王座を奪取した選手。当時の僕にしてみれば憧れの存在でした。そんな選手と実際に戦えることになって、しかも勝てたのは、運があったからだと思います。ウィラポンと再び戦うことになった防衛戦の時も、正直なところ勝つのは難しいだろうなと思っていました。でも、結果はKO勝ち。さすがにあの時は『俺の時代が来たかもしれない』と思いましたね(笑)。
 ただ、自分が強いチャンピオンだとは確信できなくて、防衛を重ねている間も毎試合、『いずれは負けるんだろうな』という気持ちでした。対戦相手との勝負はリングに上がれば五分五分。勝敗を分けるのは運です。ただ、その運がちょっとでも自分に傾くようにと、さぼらずに練習しました。そうやって現役時代はずっと、『俺は本当に強いんだ』と思える瞬間を探していたような気がします」

試合で全てを出し尽くして引退したい

長谷川氏はチャンピオンになって以降、10度の防衛を重ねて“絶対王者”と呼ばれた。しかし、11度目の防衛戦でWBO世界バンタム級王者、フェルナンド・モンティエルに敗れて王座から陥落してしまう。その後再起を図り、階級を2つ上げてファン・カルロス・ブルゴスとのWBC世界フェザー級王座決定戦に臨むと、見事勝利し、2階級制覇を達成。ところが、初防衛戦で強豪のジョニー・ゴンサレスに敗北を喫する。そこから引退するまでの約5年間は長谷川氏にとって、「現役中、最も過酷で辛い時期」となった。

「現役続行を決意してゴンサレス戦後に再起はしたものの、世界戦がなかなか決まらず、1年、2年と時が過ぎていって・・・。最初は、まさか世界戦に辿り着くまでこれほど時間が掛かると思っていなかったんです。それでいつの間にか、もう一度世界チャンピオンになって引退するという目標が、とにかく世界戦をやるまでは引退できない――という目標に変わっていった。だから、3年後にようやくIBF世界スーパーバンタム級王者のキコ・マルチネスとの対戦が決まった時、僕はその時点で目標を達成したかのような気持ちになってしまっていたんです。
 試合当日、リングに上がった瞬間に、『やった!これで辞められる』と思ってしまっていて。そんな心境でしたから、ゴングが鳴った時の気持ちは空っぽ。それは負けますよね。そして、リングを降りる時にようやく、『しまった』と気付いた。『なぜ、リングを降りるまで戦う気持ちを保てなかったのか』と。リングに上がるだけで満足して、世界チャンピオンになろうとする意気込みで戦えなかったことに、後悔しましたね。あれでは引退できなかった。納得して引退するには、気持ちを前面に出して、持てる力の全てを出し尽くすような世界戦をしなければならない。とにかく、心身共に万全の状態でリングに上がってみせる――その意気込みで、現役続行を決めました」

目標達成の裏に隠れた努力

納得できる引退への道筋を見つけた長谷川氏。しかし、ファンや周囲の目は厳しく、パフォーマンスの衰えを指摘し、引退を勧める声も挙がるようになった。

「あの当時、ファンや周囲の方々と自己評価のギャップには悩みました。マルチネス戦後にフェザー級でオラシオ・ガルシア、さらにスーパーフェザー級でカルロス・ルイスと戦い、どちらにも勝った。2人とも非常に実力のある選手でしたが、どんなに強い相手でも、気持ちが入ったボクシングをすれば、勝てると証明できたと思います。それでも、『もう辞めたほうがいい』と言われるんです。勝っているのに、僕の自己評価と世間の評価がずれている。あれは悔しかったですね・・・。それでも、WBC世界スーパーバンタム級で世界挑戦が決まった。それが僕の最後の試合となる、ウーゴ・ルイス戦です。実はあの試合の45日前、僕は左手の親指を脱臼骨折したんです。普通だったら試合をキャンセルするような、ひどいケガでした。全身麻酔をして手術を受けましたが、医師からは45日では絶対に治らないと言われた。今でも手に手術痕が残っています」

 

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