巻頭企画天馬空を行く
プレッシャーに打ち勝った決断
そして翌年の1998年、準備を整えた野口氏は、2回目のエベレスト登頂に挑戦した。
「この時は、スポンサーや報道陣の手前、『もう失敗はできない』という思いもあり、かなり追い詰められていました。そして、1回目の反省から学び、2回目は相方と一緒に慎重に進んでいって、最終的には山頂まであと300mというところまで来たんです。しかし、そこで突然天候が荒れて猛吹雪になって。その時は吹雪の中、『行く』『行かない』で1時間くらい悩みましたね。すると、相方は『絶対に行く』と言うんです。それでますますどうしようかな、と。だって、また登頂できなかったとなれば報道陣に責められますし、しかも仮に相方が成功したら、何も言い訳できないですからね。でも、僕は最終的に戻ることを決断しました。1回目は『失敗』でしたが、2回目は自ら『撤退』したわけです。
吹雪に見舞われた暗闇の中で、体も凍傷が始まり、一刻も早く決断しないと命が危険な状態になっていました。その時にふと、ポケットの中に、当時付き合っていた彼女が『これを持って行って』と手渡してくれた香水の小瓶が入っていることを思い出したんです。その香水は普段彼女が使っていたもので、思い立って嗅いでみると、彼女の存在をすごく身近に感じました。そして、『帰ってきて』という彼女の声が耳元で聞こえたんです。その時に、『ここで死にたくない』という感情が勝って、相方を見送って下山することにしました。もう足の指も感覚がなくなっているくらいの状況でしたから、ギリギリの決断だったと思いますね。ちなみにその後、相方は残念なことに登頂できずに遭難してしまい、奇跡的に救助されて一命をとりとめました」
「生きて帰る」という使命を持って
エベレストの山頂直下、わずか300mで到達できるという所で、撤退という英断を下した野口氏。この時の経験が、登山に向き合う意識を切り替えるきっかけとなったという。
「どんなことでもそうですが、特に登山のような自然を相手に、『絶対』なんてことはないんです。どれだけ準備をしようが、登れないときは登れないし、登れるときは登れるもの。僕は、それまでずっと『失敗したらスポンサーに顔向けできない』というプレッシャーばかり感じて焦っていましたが、実際には生きて帰れなければ、それこそ批判的な意見も集まるでしょうし、スポンサーにもたくさん迷惑が掛かると思ったんです。つまり、スポンサーのワッペンが付いた服を着ている自分には、『死を選ぶ自由がない』ということ。死とプレッシャー、2つの恐怖のジレンマと闘っていた自分の中で、考え方が変わるきっかけになりましたね。
よく、いろいろな方に『無理はしないで』と声を掛けて頂くのですが、無理をしなければ登れないのがエベレストなんです。エベレスト登頂を成し遂げるには、『していい無理』と『してはいけない無理』を正しく判断し、『していい無理』の範囲内で最大限の無理をすることが必要でしょう。正直、2回目の挑戦の時のように、判断に困るくらい微妙な状況も多々ありますよ。その見極めは、もちろん経験もありますが、最終的には勘に頼るしかないと思います」
成功より失敗が学びにつながる
結局、山は登れるときは登れる。その究極にシンプルな答えは、見事エベレスト登頂に成功した3回目の挑戦で、野口氏自身が体現することとなる。
「3回目は、それまでの過酷な登山が嘘だったかのように、あっけなく登れました。その時は、まず天候が良かったんです。そして私だけではなく、仲間みんなの健康状態と精神状態が良かった。その時点で『これは登れるな』という予感がしていましたし、実際に登り切ることができました。ただ、登頂の喜びを感じたのは本当にわずかな間で、山頂に着くや否や、すぐに下山のことを考えました。実は登頂直後、仲間の1人が発狂して、急に谷底に飛び込んでしまって・・・。高山病でメンタルも弱っているし、それくらいギリギリの状態でみんな登っているんだなと改めて痛感したとともに、だからこそ成功の余韻に浸るのではなく、慎重に下山しなくてはと、気を引き締めましたね。登山で一番危険なのは、下山なんです」
そうして1999年、3回目の挑戦にして悲願のエベレスト登頂に成功した25歳の野口氏は、当時の世界7大陸最高峰の最年少登頂記録を塗り替えた。しかし、同氏の語り口に熱が帯びるのは、3回目の記録達成時の内容より、1回目、2回目に登頂できなかった時の話だ。
「正直、登れたことより登れなかったことのほうが、悔しかった思いもあるので記憶によく残っています。実は、失敗して帰国した時には、マスコミだけでなく、登山家の先輩にも『ここが悪かった』『こうすれば良かったのに』といろいろ言われたんです。そういう話を聞いている時は本当にイライラしていて、その感情を自分の中に溜め込んでおきたくなかったので、言われた内容をノートに書き殴っていました(笑)。それをだいぶ後になって読み返してみると、当時は腹が立っていただけの言葉が、実は的を射ていることに気付くんです。つまり、自分には見えていなかった足りない部分を、周りに指摘されていたわけですね。結局、成功から学ぶことはあまりないですが、失敗から学ぶことはたくさんある。私の場合、2回の挫折があったから3回目で成功できたんだと強く思います」
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