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巻頭企画天馬空を行く

アルピニスト 野口 健

野口 健 KEN NOGUCHI
1973年、アメリカ・ボストンに生まれる。外交官を務める父の元、ニューヨーク、サウジアラビアで幼少期を過ごして4歳で日本へ。その後、小学3年生でエジプトへ渡り、中学・高校はイギリスの立教英国学院に在学する。15歳で登山家・冒険家の植村直己氏の著書『青春を山に賭けて』を読んだことをきっかけに登山にのめり込む。16歳でヨーロッパ大陸最高峰モンブラン、アフリカ大陸最高峰キリマンジャロなどの登頂に成功。1992年、亜細亜大学国際関係学部に入学。1999年、25歳でエベレスト登頂に成功して世界7大陸最高峰登頂を達成するとともに、当時の最年少記録を樹立した。現在は登山以外の活動にも尽力し、エベレストと富士山の清掃活動、シェルパ基金の設立、「野口健環境学校」の開校、マナスル基金の設立、「センカクモグラを守る会」の立ち上げ、国内外における被災地支援活動などを精力的に行っている。

1999年、25歳で世界7大陸最高峰登頂を達成し、当時の最年少記録を打ち立てたアルピニスト・野口健氏。15歳で初めて山に登って以来、登山はもちろん、清掃登山をはじめとした環境問題や社会貢献に関するさまざまな活動に勤しんできた。枠にとらわれない挑戦を続ける同氏を突き動かすものとは何なのだろうか。その唯一無二の哲学を伺った。

落ちこぼれの日々を変えるために

外交官だった父親の仕事の都合で、幼少期からアメリカ、サウジアラビア、日本、エジプト、そしてイギリスと、さまざまな国で過ごしてきた野口氏。「エリート街道を歩んできた父とは真逆の道を進んでいました」と自身が話すように、勉強は苦手で、たびたび問題を起こしてしまう子どもだったという。そんな同氏の人生を変える大きな転機が訪れたのは、15歳の頃だった。

「僕は中学・高校時代、親元を離れ、イギリスにある日本の学校に通っていました。しかし、勉強に身が入らずに落ちこぼれてしまって・・・。ついには校内で問題を起こし、1ヶ月の停学処分を受けることになったんです。自宅謹慎を命じられて、日本に帰ることになったのですが、父には『ただ家にこもっていても気が滅入るだけだから、旅に出て自分の人生を考えろ』と言われまして。それで、親戚がいた関西圏へ、一人旅に出ることになりました。
 その旅の途中で本屋に立ち寄ると、ふと1冊の本が目に入ったんです。それが、登山家・植村直己さんの『青春を山に賭けて』という著書でした。なぜかは分からないのですが妙に気になって購入して読んでみると、その内容が、停学処分で落ち込んでいた自分の心にすっと響いて──。本の中には、コンプレックスを抱えていた直己さんが、就職もうまくできず、世界中を放浪する様子が書かれているんです。それも『スーパースターを目指そう』というような野心はなく、とにかくその時の自分にできることをコツコツ続けていて。そして、その積み重ねで日本人初のエベレスト登頂や、世界初の五大陸最高峰登頂などの偉業を成し遂げていきました。そうした直己さんの生き方に感銘を受けて、自分もまずは山に登ろうと思ったんです」

恐怖のジレンマと闘って

それまでは一切、山に興味を抱いてこなかったと言う野口氏だが、1冊の本を手にしたことをきっかけに、登山への挑戦を決意した。同氏が通っていた高校には山岳部がなかったため、日本の社会人山岳会に入り、高校の長期休みなどに活動していたという。16歳の時には、その若さでヨーロッパ大陸最高峰のモンブラン、続いてアフリカ大陸最高峰のキリマンジャロへの登頂を果たすと、「世界7大陸最高峰登頂」という目標を抱くようになった。しかし、危険と隣り合わせの登山に果敢に挑戦していく中で、恐怖は感じなかったのだろうか。

「もちろん怖かったですよ。でも、最初のうちは本当の意味での恐怖は知りませんでしたね。例えば、山から落ちたり、遭難したりすれば命に関わるということは分かるんですが、そこから先の具体的なイメージが湧かないんです。それが、次第に “真の恐怖”を感じるように変わっていったのは、無残な遺体をたくさん見て、仲間の遭難や死と直面する機会が増えていったから。極端に言えば、万が一の事態が起こったとしても、本人は危険を覚悟して好きで登っているわけだから良いんです。でも、一番辛い思いをするのは遺族なんですよね。遺体を遺族に引き渡す、そのリアルな情景を知っているからこそ、登山への恐怖は持ち続けなければならないですし、実際、今でも怖いままです。
 一方で、矛盾しているようですが、『登り切らなくてはならない』という恐怖を持ち続けていた時期もありました。僕たちはスポンサーから出資して頂いて山に登ります。そのため、服に付いたスポンサーのワッペンを見るたびに、『お金を出して応援してもらっているのに、頂上に到達できなかったら申し訳ない』という気持ちが湧き起こるんです。スポンサーがいないと登れない、でもスポンサーがいるとプレッシャーを感じる。そのジレンマに陥っていましたね」

エベレストに挑んで気付けたこと

命を落とすことと、登頂に失敗すること。その両方に恐怖を感じながら、1997年、23歳の同氏は、世界7大陸最高峰制覇の最後の1つとなっていたエベレスト登頂を目指す。しかし、初挑戦は失敗に終わった。

「自分なりにはしっかり準備をして臨んだつもりだったのですが、振り返ると、体づくりもメンタルケアも全くの準備不足でした。天候も悪かったですし、酸欠で思考能力も低下していて、ベースキャンプに戻って休むべきところを、一気に登ろうとしてしまったんですね。それで意識を失い、現地の案内人であるシェルパが何とか発見してくれて、降ろしてもらいました。
 そんなふうに失敗したのは、自分にとって初めてのことでした。それまでは、他の6大陸の最高峰も含めたいろいろな山を、比較的とんとん拍子に登ってきていたんです。それゆえに、根拠のない自信を持っていて。ただ、エベレストでの失敗を経て、それまでの登頂は若さと勢いと運の3つが揃っていたから、たまたまうまくいっていただけなんだと気付くことができました。何より、それだけでは登れないのがエベレストなんです。そこで、失敗した要因を踏まえ、体づくりはもちろん、緻密に戦略を立てたり、食事や香りなどベースキャンプの環境づくりにもこだわったりして、さまざまな工夫をしていったんです」

 

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