巻頭企画天馬空を行く
NASAで働く夢を現実のものに
その後、山崎氏は高校を卒業してから航空宇宙工学科がある大学への入学を目指し、夢の実現に向けて動き始める。
「小学校、中学校と頭の中は宇宙のことばかりだったのに、高校時代はバイクに乗ってバンドをして・・・勉強よりも遊びのほうが楽しく、色々なことに夢中になる日々を送っていました。そうしているうちに3年生になり、学校から進路アンケートを渡されて。当時は就職を考えていて就職先を考えあぐねていたところ、担任の先生が『進路を決めるときは、自分が一番好きなことを選べばいい』と言ってくれました。そこで僕は『好きなことと言えば、やはり宇宙だ!』と思い、就職先に『NASA』と書き込んで先生に提出したんです。もちろん『行けるわけないだろ!』と一蹴されましたが(笑)。その先生の反応に反骨精神が湧いたこともあり、卒業して本格的に受験勉強を始め、航空宇宙工学が学べる大学を目指しました。最初の受験では合格点に3点だけ足りずに不合格。悔しくてもう1年頑張って、卒業から2年後に無事、第一志望の大学の航空宇宙工学科に合格できました」
晴れて合格した大学では、宇宙にのめり込む日々を送ったという。
「大学では宇宙に行くための勉強だけ熱心にやっていました(笑)。そうした中、大学3年生のときに映画『アポロ13』を観たんです。これは月面着陸を目指したアポロ13号の爆発事故をもとにした映画ですが、作中で描かれていた、危機的状況の中で冷静な指示を飛ばす管制センターの人々の姿が印象的で。『宇宙や宇宙船のことを知り尽くしているのは、実は地上の人たちなんだ』ということを知ったんですね。言うなれば宇宙飛行士はキャストで、地上にいる人たちはその飛行を縁の下で支える存在。それがすごく格好良いなと思って、そのときに『NASAの管制センターで働きたい』という思いが明確になりました。
当時、すでに日本でもNASA主導の国際宇宙ステーション計画がスタートしていたので、筑波宇宙センターで働けばNASAに行くチャンスがあるだろうと思い、三菱スペース・ソフトウエア(株)への就職を目指しました。そこは、地上と宇宙ステーションをつなぐシステムをつくっている会社です。まだ就職活動が始まる前からシンポジウムに参加したり、会社見学をさせてもらったりしてひたすら自分を売り込んでいたら、最初の面接で『君はもう合格』と言ってもらえました。ただ、僕はとても強気で、『国際宇宙ステーションの仕事ができなかったら、すぐに辞めます』と面接で宣言していたんですよ(笑)。そんな生意気な学生だったにも関わらず、入社後は宇宙ステーションの仕事、つまり希望の部署に配属してもらえました」
山崎氏が三菱スペース・ソフトウエア(株)に入社したのは1997年。当時の国際宇宙ステーション日本実験棟「きぼう」はまだ運用準備段階で、管制センターも出来上がっていなければ、管制官の経験者もいない状態だった。山崎氏は、日本で初めて宇宙ステーションを動かすチームの立ち上げメンバーとなったのだ。
「先生となる人もいなければマニュアルもない中で、試行錯誤しつつ必死に仕事をこなす日々が続きました。入社3年目には、管制官候補者の中から10 名だけ、実際の運用経験を得るためにNASAに送り出されることになって。宇宙ステーションの実物はアメリカやロシアにしかなかったので、訓練を受けるために現地まで行く必要があったんですね。とはいえ、その10名に選ばれるのは管理職クラスの人ばかり。すると、1人ずつ順にNASAに送り込まれていく中で、最後の1人が仕事のトラブルで急に現場を離れられなくなってしまい、代わりに僕が指名されたんです。責任ある立場の人たちは現場を離れて急遽NASAに行くなんてことができませんから、若手が選ばれるのは必然だったと思いますが、その中で僕は偉い人たちしかNASAに行けないことの歯がゆさを色々なところで訴えていましたから、上司もその熱意を汲み取ってくれたのかもしれないですね。
何はともあれ、NASAの管制センターに入ることができ、そこでは宇宙ステーションの運用から組み立てまでしっかり学びました。管制センター内で訓練をして建設中の現場でも経験を積み、それを日本に持ち帰ってフィードバックする。その繰り返しで、アメリカと日本を行ったり来たりの暮らしが続きました。振り返ってみると、高校の先生に『NASAになんて行けるわけがない』と言われた日から、それを実現させるまで、ひたすら好きなことに向かって一直線で突っ走ってきたという感じですね」
国家事業を離れ、民間宇宙ビジネスへ
念願のNASAの管制センターに足を踏み入れ、管制官として充実した日々を送っていた山崎氏。しかし、2004年には会社を退職するという決断を下した。
「結婚し、子どもが生まれて、両親の介護が始まり・・・本当に色々なことが重なる時期がありました。しかも、宇宙飛行士だった妻はロシアへ訓練に行っていて、それが終わると、今度はアメリカに2年間出張することになって。僕はアメリカに何度も出張しながら日本での子育てと介護に追われていたのですが、宇宙ステーションの建設も進み、仕事もどんどん忙しくなる中で、さすがにもう限界だと感じました。会社の方々にも迷惑を掛けてしまうし、自分も働きながらではやるべきことを全てこなせないと痛感していたんです。そこで、ついに会社を辞めるという苦渋の決断をしました。
でも会社を辞めた途端、自分の肩書きや立場がなくなったんです。当時の日本では、仕事をしていないと無職、ヒモ、ニートという呼ばれ方をしました。主夫やイクメンなんていう言葉もありませんでしたから。それに仕事も嫌になって辞めたわけではないので、宇宙に携わる仕事をし続けたいという思いはずっと持っていました。ただ、僕は会社を辞めてからアメリカに移って子育てをしていましたが、宇宙飛行士の配偶者として支給される外交官ビザだとアメリカでは働けなくて。それなら日本でつくった仕事をアメリカに持ってくるしかないと思いました。そこで、自分の会社を立ち上げることにしたんです」
起業当初は、コラムの執筆やNASAを取材するメディアのアレンジなど、山崎氏自身の経験が生きる仕事は何でも手がけていたという。その後、日本に帰国したのは2010年のことだ。
「妻のフライトが終わり、その半年後に日本に戻りました。ただ、宇宙飛行はお金が掛かるので、帰国時には貯金も底を突いていて。ひとまず鎌倉の実家に転がり込んだものの生活に余裕はなく、これはもうアルバイトをして稼ぐしかないな・・・とまで思っていた頃のことでした。おもちゃコレクターとして有名な北原照久さんと出会ったのです。北原さんとは知人に招待されたホームパーティで顔を合わせ、簡単にご挨拶させて頂いただけだったのですが、その翌日に突然電話がかかってきたんですよ。僕の著書をたまたま見つけて読んでくださり、『3回泣いたよ。とても感動した』とおっしゃるんです。『これまで君が奥さんの夢を支え、家族を守るためにどれだけ頑張ってきたのか良く分かった。今度は君が主役になって、自分の夢を叶える番だ』──その電話を受けて、僕も涙が出るほど嬉しかったことを覚えています。
その日から、北原さんはご自身の講演会があるたびに僕に声をかけてくださるようになりました。講演会では壇上に上げて僕のことをたくさんの人に紹介してくれて、そこから自分にも講演の仕事などがどんどん増えていったんです。そうして1年半で2000万円の資金を貯めることができ、それを元手に『ASTRAX』としての宇宙ビジネスをスタートできるようになりました。北原さんとの出会いが、僕の人生を変えてくれたんです」
宇宙でやりたいことを叶える仕事
運命的な出会いから、自分のやりたいことに向けて再び歩を進めることとなった山崎氏。現在手がける事業は何と40以上にものぼり、ホームページには「宇宙」に関連した事業名がずらりと並ぶ。
「宇宙に行くためのノウハウや知識は、これまでの自分の経験から全て分かっています。そこで、宇宙に行きたい人や、宇宙に興味があって宇宙ビジネスを展開したい人を幅広くサポートする会社をつくろうと思いました。日本ではほとんど広まっていませんが、今や世界中の民間企業が宇宙ビジネスに参入する時代です。民間宇宙旅行は予約者が殺到していて、宇宙船の開発や宇宙ホテルの建設、月面旅行、火星移住などの構想が進められているのです。しかし、宇宙船があり、乗客もいますが、それをつなぐサービスがありません。その人たちが実際に宇宙に行ったときに『これがやりたい』と思っても、それをサポートできる会社がないんです。だからこそ、ここにはビジネスチャンスがあると思いました。
例えば、宇宙に行ってやりたいことを聞くと必ず挙がるのが『結婚式』ですが、宇宙で挙式をするには、無重力空間でも綺麗に着られるドレスや、上手くはめられる指輪を開発しなくてはなりませんし、無重力対応のカメラとカメラマンも必要です。ウエディングケーキも、無重力でもカットして食べられるような商品を開発する必要があるでしょう。こうやってパッと思い付くだけでもやることは山ほどあるわけですが、1つの夢を叶えるためにはそれだけ全ての準備を整えなくてはならないのです。そのために、ウエディング会社や指輪メーカーなどとコラボレーションして、僕の会社でサービスを一式揃えようと思っています。
結婚式は一例ですが、こうしたあらゆるニーズに対応していくには、まずどんなニーズがあるのかを掘り起こし、知見を得ることが大切です。そのために、今は無重力体験サービスを活用しています。これは、ジェット機で高度7500mくらいまで飛び、急上昇と急降下によって機内に無重力空間をつくり出すというものですが、大型ジェット機を使用して大人数を一度に乗せるアメリカやロシアのサービスと違って、日本は少人数しか乗れないプライベートジェット機でサービスを提供しています。大人数だと、無重力空間でも決まった内容をみんなで同じように体験することしかできませんが、少人数なら、一人ひとりの『やりたいこと』を試すだけの余裕があるため、本当に様々な要望が出てくるんです。例えば、過去には無重力空間で魔法使いの格好をして箒を持って飛んだ人もいましたし、社交ダンスを踊った人や、マジックを披露した人もいました。そういった自分では思い付きもしなかったニーズを乗客の皆さんから教えて頂き、実際に無重力空間でチャレンジしてもらうことで、実現のための課題を探り、ビジネスにつなげることができるのです」
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