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武田 双雲 TAKEDA SOUUN
1975年、熊本県生まれ。幼少期より母・武田双葉に師事し、書道を始める。東京理科大学理工学部情報科学科を卒業後、東日本電信電話(株)(NTT東日本)に入社し、営業職として勤務。約3年後に同社を退職し、書道家としての活動をスタート。パフォーマンス書道や、音楽家・彫刻家といったアーティストたちとのコラボレーション、斬新な個展など独自の創作活動で注目を集める。映画「春の雪」「北の零年」、NHK大河ドラマ「天地人」、世界遺産「平泉」、スーパーコンピュータ「京」など数多くの題字・ロゴを手がけるほか、文化庁の任命を受けて海外でもパフォーマンスやワークショップを展開。日本テレビ「世界一受けたい授業」などメディア出演も多数。現在、自身が主宰する書道教室「ふたばの森」では約300人の門下生を抱え、著書数は40を超える。
【公式サイト http://www.souun.net/】
「武田双雲」なくして、現代日本の書道界を語ることはできないだろう。力強く、のびやかで、独創性溢れる「書」を生み出し続け、今最も活躍の場を広げる大人気書道家だ。その活動やアイデアの源泉を探るべく、半生から書道に臨むスタンスまで様々に伺う中で見えてきたのは、究極にシンプルな思考法と生き方だった。
ゲームのように書道を楽しむ
まずは、書道家・武田双雲のルーツに迫るべく、書道との出会いを伺った。
「母親が書道教室の先生だったので、おそらく2、3歳の頃から筆を持ち始めていたと思います。幼稚園生くらいのときに書道教室できちんと習うようになったのですが、最初から書道は楽しくて、特に『字』そのもの──字の成り立ちや形、人の書くクセ字などに興味がありました。例えば校長先生の書く“しんにょう”とか、体育の先生の書く“さんずい”とか(笑)。同じ字でも、書く人によって点の位置が全く違ったり、丸かったり角張っていたり・・・そういうマニアックなところに目を向けては、自分でも真似してノートに書いていましたね。だから書道は練習する、というよりも、暇つぶしのゲーム感覚に近かったんです。書道教室に通っていたのは中学生の頃まで。高校に入ってからは部活動でハンドボールに熱中していました。ただ、大学進学後は1人になる時間も増えたので、趣味として自分の部屋で書道をすることもありましたし、学生時代は程度の差こそあれ、何だかんだで書道にはずっと親しんできたように思います」
営業マンからの大転身
幼少期から書が常にそばにある生活を送ってきた武田さんだが、社会人としての第一歩目を踏み出したのは、書道とはかけ離れた世界だった。通信事業の最大手・NTT東日本の営業マンというポジションだ。
「大学時代、先のことなんて何も考えていなかったので、いわゆる“就活”もやっていませんでした。すると、それを見かねた教授が『武田君は身体が大きいから大手企業に推薦しておくね』と言ってくれて(笑)、NTTに推薦状を送ってくださったんです。そのご縁で入社することができたのですが、僕は理系の大学でコンピュータを学んでいたので、最初はシステムエンジニアとして採用されて。でもコンピュータより人間が好きだったから、入社してすぐに『営業がやりたいです』と言って変えてもらいました。人見知りは全くしないし、初対面の人とも気負わず接することができるので、営業マンには向いていたと思いますね。
そんなこんなで仕事も楽しいし、同僚も上司もいい人ばかりで、このまま充実したサラリーマン生活が続いていくと思っていました。すると、そのうち僕が筆ペンでメモを書いていたのが話題になって、『武田君は字が上手い』という噂が広まるようになったんです。それで色々な人から自分の名前を書いてほしいと頼まれるようになったのですが、その中である女性社員が、僕の字で書かれた自分の名前を見て『これまで自分の名前が嫌いだったけど、初めて好きになれた』と涙を浮かべながら感動してくれたんですよ。そのことが僕もすごく嬉しくて──。そして、先輩が冗談まじりに『武田君、これで食べていけるんじゃないの?』という言葉をかけてくれたときに自分の中に衝撃が走り、気付けばその日のうちに辞表を書いていました。入社して、3年ほど勤めた頃でしたね」
当時は“書道家”のイメージすら湧かなかったそうだが、己の直感を信じて躊躇することなく未知の世界に飛び込むことを決めた武田さん。とはいえ、周囲の反対はなかったのだろうか?
「もちろん、会社の人には止められましたね。でも結局はその反対を押し切って辞めたわけですから、思い返してみても相当強い気持ちだったんだと思います。ただ、そこにあったのは純粋な好奇心だけでした。『ケーキが食べたい』と思った子どもが、周りの大人にどれだけ止められても『嫌だ!一口でいいから食べさせて!』となるのと一緒(笑)。『書道家』という道があることに気付いたら、いてもたってもいられなくなったんですね。
それと、まだ若かったですし、おそらく餓死はしないだろうと思っていたのであまり不安もなかったんですよ。書道でお金が入らないならアルバイトをすればいいし、最悪、お金がなくても物々交換でおにぎりくらいならもらえそうだな、とか。家がなくなっても誰かしら泊めてくれるだろうな、とか。実際に食べていけるのかどうかなんてそっちのけでしたね(笑)」
そうして書道家として独立を果たした武田さんは、書道教室を開くと共に、路上で通行人にリクエストを受けてその場で作品を書く“ストリート書道家”としての活動もスタートする。当初、書道教室にはなかなか生徒が集まらず、路上で書いてもそうそうお金には結びつかなかった。それでも武田さんは、そんな当時を「楽しかった」と振り返る。
「サラリーマン時代と違って、自分が発信したものに対してダイレクトにリアクションが返ってくるのは面白かったですね。ストリートは最初こそ恥ずかしさや怖さがあったものの、やっていくうちに、こちらが相手のために思いを込めて書けば、それがきちんと反応に繋がると気付いたんです。書道教室であっても、1人目の生徒が来てくれたときには『もっと生徒を入れたいな』ではなく『この生徒のために何をどれだけできるだろう』という方向に気持ちが向かいました。要は、目の前の人を喜ばせるのにとにかく夢中だった。そして夢中になっていたら、次第に雑誌やラジオで取り上げて頂けるようになり、気付けばどんどん流れがいい方向に回転していったという感じです。
今になって振り返ると、僕にとって筆は人を喜ばせるための“魔法の杖”だったんでしょうね。サンタクロースがソリとトナカイを手に入れて世界中の子どもたちにプレゼントを配れるようになったのと同じように、僕も筆を手にしたことで、たくさんの人を喜ばせることができるようになったんです」
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