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Challenge+(チャレンジプラス)

巻頭企画天馬空を行く

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指導者としての苦悩

20140701_ex02梨田氏は35歳という若さで現役を引退し、巨人のV9を支えた名将・川上哲治氏の推薦もあって翌1989年にNHKの野球評論家に就任。1991〜1992年にはNHK系列のスポーツ番組「サンデースポーツ」の司会を務めるなど、お茶の間の顔としても活動した。そして「外の世界を見て非常に視野が広がった」と語る梨田氏は満を持して1993年、一軍作戦兼バッテリーコーチとして近鉄バファローズに復帰する。

「コーチとして古巣に戻ってきたのが40歳のとき。いわゆる“中間管理職”というポジションで非常に難しかったですね。まだ若かっただけに選手との距離が近い一方で、当然ながら監督ともうまくやっていく必要がある。チームの調子が落ちてくると選手から不平不満が出てくるものですが、そうした問題を監督にうまく伝えられず、自分自身にストレスを感じていた時期もありました。“優勝”という全員の明確な目標があるはずなのに、選手と監督の意見にズレが生じていたりして、そんなときにどう動くのがベストなのかも分からない。今振り返ると、もう少し選手の気持ちを汲み取れていたらという思いはありますね。
 そしてコーチとして4年目、チームが最下位に終わった翌年の1996年ですが、球団から二軍監督の打診を受けたんです。いずれは一軍の監督もしてみたいという気持ちがあったので、やはり嬉しかったですよ。二軍と言えど組織の長であることは間違いないわけで、そのとき二軍にいる若い選手たちは、数年後にもし僕が一軍の監督になったとしたら絶対に戦力になってくれる人たちなんですよね。だからこそ彼らをどう育成するかという点について、二軍コーチと共に試行錯誤しました。
 僕が育成の際に心がけたのは、選手の短所・長所を見極めたうえで長所を伸ばしてあげることでした。二軍の選手はまだ未熟なだけに、短所というのはすぐに見つかるんですよ。でも、選手でさえ気づいていない長所も絶対にある。そうしたところを見出すためには選手の性格を知ることも大切なので、可能なかぎり食事に誘い出して野球以外の話をするようにしましたね。
 それと指導するうえで大事だと思ったのは、コーチと同じことを選手に伝えること。監督とコーチの言っていることが間違っていたら選手は迷ってしまいますからね。そうならないためにはコーチと意思疎通を図るしかありません。その意味では当たり前のことかもしれませんが、いい組織をつくるにはコミュニケーションが大切なのだということを痛感しました」

二軍監督としての4年間が評価されて2000年、いよいよ一軍の監督に就任する。前々年の1998年は6チーム中5位、前年の1999年は最下位と、チームが低迷するなかでの船出だった。

「就任1年目は主力にケガ人が続出、まだまだ選手層が薄かったことや僕自身の至らなさもあり、2年連続の最下位に終わってしまった。それと、自分の理想のチームにしようと考えすぎたのも不振の要因だったように思います。実は僕、機動力野球──盗塁やエンドランでかき回すような走力重視の野球をやりたかった。これは僕自身がキャッチャーだった現役時代、小技を使われると守備のリズムを狂わされたりして嫌らしさを感じていたので、逆にそれを相手チームにやったら効果的だと考えていたんです。でもそれは結局、チームカラーに合わなかった。野球好きの方なら覚えていると思いますが、当時は中村紀洋、ローズ、クラーク、吉岡、川口、磯部といった長打力のある好打者がたくさんいたので、2年目は機動力ではなく打撃中心のチームにしようと考えました。つまり僕の理想とするチームではなく、選手のカラーに合わせたチームづくりをしようと」

監督就任2年目の偉業

就任1年目の2年連続最下位という結果を受け、チームづくりの指針を根本から見直すことを決意。チームカラーの延長線上に監督としての方針を定める一方、新選手の獲得や選手との接し方を変えるなど、1年目の反省を活かして多くの部分でテコ入れを図った。それが「同一監督で最下位の翌年にリーグ優勝」という、読売ジャイアンツの長嶋茂雄監督以来2人目の快挙に繋がっていく。

「2年目の補強として、投手力が弱かったのでピッチャーを獲得しようと考えた。それと個人的にチームに来てほしいと思ってトレードで獲得したのは、阪神タイガースにいた北川という選手。まだ実績がない二軍の捕手で、僕は二軍監督時代に彼のことをよく見ていたんだけど、元気があって人間的にとてもいい奴でね。北川は人の成功を自分のことのように喜べる性格だったし、何より凄く楽しそうに野球をやっているんです。“皆がライバル”というようなプロ野球の世界には、あまりこういうタイプの人間はいないんですね。だからこそ私は、彼の人間性を高く評価しました。また、守備はともかく打撃がいい選手だったから、DH制のあるパ・リーグならばそのバッティングを活かせるのではないかと考えたんです。
 そして僕が一軍の監督になり2年目のシーズン、彼を一軍に定着させると徐々に結果を残すようになったんですね。さらに優勝が決まった試合で彼は、プロ野球史上初となる“代打逆転サヨナラ満塁優勝決定ホームラン”を放つという大仕事をやってのけた。そのとき僕は、この偉業は偶然などではなく、北川の人柄の良さが生んだ神様からのご褒美ではないかなと思いましたね。それくらい、何か神懸かっていた出来事でした。
 組織づくりの面においては、基本的なことですが挨拶をしっかりしようと心がけましたね。とにかく自分から選手のほうに近づいていって、『おはよう!』のあとに『散髪したんか』とか『ヒゲ剃った?』とか、何でもいいから一言、意識的に声をかけるようにしたんです。その一言が『監督は自分のことを見てくれている』という安心感に繋がり、選手たちも『逆に監督は今どうしたいのだろう、そのために自分はどう動くべきか』ということを考えてくれるようになる。その結果、試合の作戦面でもスムーズにいくようになりましたね。試合後も遠征先のホテルで一緒に食事をして、選手たちと腹を割って色々な話をしました。これが会社ならば上司と部下の関係性になると思いますが、そうした繋がりによって組織にいい雰囲気が生まれ、優勝にも繋がったのだと思います。
 あとは球団職員やマネージャー、打撃投手、スコアラーといった裏方さんを大事にしようという気持ちも強かったですね。実際、最も支えてもらっている方々だと思っていましたし、ちょくちょく食堂でビールをご馳走したり一緒にゴルフに行ったりしていました(笑)」。

 

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