巻頭企画天馬空を行く
大﨑 洋
吉本興業 株式会社
代表取締役社長
1953年生まれ、大阪府出身。関西大学社会学部卒業後、吉本興業に入社。数々のタレントのマネージャーを担当する傍ら、プロデューサーとしての研さんを積む。プロデューサーとして「心斎橋筋2丁目劇場」を立ち上げ、多くの人気タレントを輩出する傍ら、音楽事業、スポーツマネジメント事業、デジタルコンテンツ事業など、数々の新規事業を立ち上げる。2001年に取締役、2005年に専務取締役、2006年に取締役副社長、2007年に代表取締役副社長という昇進を経て、2009年に代表取締役社長に就任。吉本総合芸能学院(NSC)開校時の担当時代には、ダウンタウンや今田耕司ら、現在の吉本の中核を担う新人たちを指導した。
インタビュー・文:新田哲嗣 写真:大木真明
漫才ブームの立役者
社長になる
芸人以外で、“近代吉本”の礎となった功労者は数いるが、そのなかでもとりわけ別格と言えるのが、現在代表取締役社長である大﨑洋氏だ。「大﨑氏と当時の上司によって1980~1982年の漫才ブームが築かれた」という伝説は、もはや芸能関連の業界のなかで知らない人はいないほどの逸話となっている。 そうした礎をもとに、大﨑氏は東京支社の支社長として、関西を基盤としていた吉本の名を一気に全国にとどろかせるべく、若手芸人の発掘、コンテンツ制作の積極化など近代的なエンターテインメント企業としての地盤を固めた。そして2009年より代表取締役に就任。まずは自身の吉本でのキャリアを振り返ってもらった。
「まあ、あちこちでいいように言って頂いていますけど、入社した当時はもうロクでもない社員の代表例でしたよ、私は(笑)。大阪で生まれて大阪で育って、だから大阪の会社に就職した。それが吉本だったのですが、当時、私らの世代は無気力・無関心・無責任の、いわゆるしらけ世代。そやからね、なかなか仕事で前向きに取り組めなかったんです。当時の先輩や上司は、『こいつ、このままやったらアカンのやないか?』と思ったんでしょう、入社したときにいきなりかまされましたよ。『大﨑、お前は人に負けて悔しくないんか?人の3倍働かんとあかん』とね」
人に負けて悔しくないんか?
人の3倍働け
大﨑氏いわく、子どものころから勝ち負けにこだわる性格ではなく、大学時代も比較的自由気ままに過ごしてきたという。しかし、入社した時期は高度経済成長による苛烈な競争のさなかである。また奇しくも『お笑いスター誕生!!』『花王名人劇場 激突!漫才新幹線』など、高視聴率番組が軒並みならぶ、漫才ブーム誕生の年の新入社員である。社内でも、取り残されるべくして取り残される社員と、成長著しい社員に分かれていく。
「20数年、同じ上司の下でやってきまして、もう何かをやれと言われたら二つ返事でやってきたようなありさまですから、新人時代はなおさら言われるがままでした。ただ、3倍働けと言われても何を3倍どうしたらいいのか分からなかった。とりあえず仕事の密度は別として時間だけは3倍やってみようと思いまして。普通の人は規定就労時間で8時間働きますから、私は24時間。それに見合う成果が出たかどうかは疑問ですけど、それが当たり前のようになっていったんです。やれと言われたからやる。それに変化が出てきたのは、タレントや部下、後輩らから色んな相談をされるようになってからですね。それがいつごろからなのか、私自身はあいまいですけど、『こんな僕でも頼ってくれるんだったら、一緒にやろうか』とそれだけ考えるようになって。子どものころから、自分の中で『よし、ほんならやろうか!』と思わなければ、本気になれないところもありましたから、彼らの相談が私のスイッチになった。そこからですね、仕事を真面目に・・・というと語弊がありますけど、それなりに仕事に取り組むようになったのは」
巻頭企画 天馬空を行く