一歩を踏み出したい人へ。挑戦する経営者の声を届けるメディア

Challenge+(チャレンジプラス)

シリーズ企画インタビュアーズアイ

サッカー解説者 本田泰人

日本サッカー界屈指の強豪チーム、鹿島アントラーズ。サッカー界のレジェンド、ジーコ氏のスピリッツを脈々と受け継ぐこのチームにおいて長きにわたってキャプテンを務め、数々のカップを掲げてきたのが、今回ご登場頂く本田泰人さんだ。相手エースの潰し役、個性派を束ねるチームリーダーとして活躍し、現在はサッカーの普及や子どもたちの育成に注力している本田さんにお話を伺う。

インタビュー・文・編集:カンパニータンク編集部

20130201_int_h-01

 サッカー選手、本田泰人の原点は、父から言われた一言だったという。

本田 子どもの頃の僕は野球とサッカーを両方やっていて、どちらかと言えば野球のほうが好きだったんです。プロ野球の選手になりたいと思っていたくらいでした。でも、僕の両親はどちらも小柄でしたので、僕の体もそこまでは大きくならない、それだと野球で大成するのは難しいと考えたのでしょう。小学校6年のある日、父から「サッカーだけをやれ」と言われたんです。そこからは本当にスパルタで、中学校時代は遊んだ記憶がありません。高校は東京の名門・帝京高校に進むことができたのですが、そこでもかなり厳しい経験をしましたので、都合7年間、体力だけでなく忍耐力、精神力は鍛えられましたね。

― 卒業後はサッカー選手として当時の日本リーグ1部、本田技研に進み、1992年にJリーグ・鹿島アントラーズへと移籍されています。

本田 両親のもくろみ通りだったのかもしれませんが(笑)、サッカーを続けてきたことで幸いにして本田技研という大企業に入ることができました。しかし日本でプロサッカーが生まれることが決まり、「サッカーのプロ」という存在が具体的になってきたことで、僕も自分の力をプロという立場で試してみたいと思ったのです。

― しかし1992年当時は日本におけるプロサッカーの創成期で、将来も未知数でした。大企業の社員という安定した立場を捨ててプロサッカー選手というリスクある道を選ばれた裏には、どんな想いがあったのでしょうか。そして、怖くはなかったのでしょうか。

本田 怖くはなかったです。本田技研にいれば引退後も社員として安定した収入と立場が約束されますし、実際に実力がありながら本田技研に留まった選手もいました。もしプロになって、怪我などでサッカーができなくなってしまえば路頭に迷ってしまいますからね。ただ、プロという選択肢を目の前にした時点で、僕はどこかで覚悟を決めていたのだと思います。また、当時からブラジル人選手のハングリーさを肌で感じていましたし、その中でもトップ中のトップであったジーコの存在は、僕が鹿島アントラーズを選ぶきっかけになりました。「ジーコとサッカーをしてみたい」と。
僕は鹿島アントラーズで名実ともに「プロサッカー選手」になったわけですが、そもそも日本におけるプロサッカーの歴史自体が僕らから始まっていったわけで、最初のうちは何から何まで手探りですから本当に大変でした。もちろん選手として必死でしたが、「プロとは何か。どうあるべきか」という問いに対する答えは、当時は持ち合わせていませんでしたね。その意味で言えば、ジーコという素晴らしいお手本がいる鹿島は、プロサッカー選手として成長するのにうってつけの環境だったと思います。

― 鹿島アントラーズは、とにかく勝利にこだわる集団という印象があります。

本田 ジーコからは「勝たないと意味がない」と常々言われていました。じゃあ勝つためにはどうするか。一生懸命努力するなんていうのは当たり前の話で、そこからチームのために何ができるか、何をすべきか、どうやって貢献するか。ジーコは「ファミリー」という言葉をよく使っていて、最初は意味が分からなかったんですけど、後にそれが「チームのためにベストを尽くす」という、チームスポーツとしてあるべき姿を端的に表した言葉だったんだと気が付いたんです。ですから僕が若手を指導する立場になったときは、「チームのために何ができるか考えられる選手になれ」と教えていました。それがジーコから受け継いだ、いわゆる「勝者のメンタリティ」なのでしょうね。

 本田さんは1992年の鹿島アントラーズ入団以降、相手のキープレイヤーに仕事をさせない「エースキラー」として頭角を現す。そして1995年、25歳の時にはチームのキャプテンに指名された。

本田 鹿島に入団して数年は、自分がプロとして生き残ることで精いっぱいでしたから、キャプテンの指名を受けた時は戸惑いましたね。ただ、そこで急に何かを変えてもチームがまとまるかは分からないですし、だったら思い切って、チームを良くするために思ったことを率先してやっていこうと決めたんです。そして、たとえ嫌われても構わない、チームのために必要ならば上下関係なく、どんどん厳しいことを言っていこうと。幸い先輩方も協力してくれ、自分自身でも哲学を持った上で発言していましたので、結果的に皆がついてきてくれました。後輩には怖がられていたみたいですけど(笑)。

― プレーをしていく上で、ミスをしてしまうこともあったかと思います。そんな時の切り替えはどうされていましたか?

本田 これは本田技研時代に先輩方から教わったことなんですけど、サッカーってミスをするスポーツなんですよね。絶対にミスはするわけで、大切なのはそれを試合の中でどれだけ少なくできるか。ですから、ミスについては反省した上で、すぐに次のプレーを考えるようにしていました。それと、ジーコは前向きなチャレンジの結果のミスでは怒らなかったですよ。簡単なミスや集中力が欠けた結果のミスについては厳しく怒られましたが、それもチャレンジの大切さを伝えていたのだと思います。

― 思考を変えることで、受け止め方も違ってきますよね。

本田 今までの経験や出会った人たちの影響で、そういう考え方ができるようになっていたんでしょうね。

1 2