コラム
今から3年前、濱口竜介監督の『ドライブ・マイ・カー』(21)が国内のみならず、世界中で大きな反響を呼んだことは、まさに日本映画史に残るほどの重要な出来事でした。同作はカンヌ国際映画祭脚本賞や米アカデミー賞の国際長編映画賞を受賞。同年公開の『偶然と想像』(21)ではベルリン国際映画祭銀熊賞を受賞するなど、濱口作品の快進撃は続きます。そして新たにヴェネツィア国際映画祭で銀獅子賞に輝いたのが、今回ご紹介する『悪は存在しない』(23)です。
自然豊かな田舎町に持ち上がった開発計画
最初に断っておきますと、本作は決してメジャーな作品ではありません。何かしらのストーリーが最初から固まっていたわけではなく、『ドライブ・マイ・カー』でもタッグを組んだ濱口監督と音楽担当の石橋英子さんがまるでセッションのような創造的なやり取りを重ねることで、少しずつ形ができていったのだとか。その上、撮影は10人以下の少人数体制で行われ、誰もが密にコミュニケーションを重ね、監督の意思決定に対して即座に反応できる身軽で柔軟な状態で製作が進行していきました。ちなみに、主演の大美賀均さんは当初はスタッフとして参加していた方で、監督からその表情やたたずまいを買われて主人公に抜てきされたというのですから驚きです。
かくもインディペンデントかつ実験的とも言える本作の舞台は、豊かな自然に恵まれた田舎町。野生の鹿が生息するほどの深い森もあれば、近くには清らかな湧き水が流れ、主人公ら住民たちはそれらの資源を大切に享受しながら穏やかに暮らしています。そんなある日、東京の芸能事務所によるグランピング場の建設計画が浮上。新型コロナウイルス感染症に伴う給付金目当ての見切り発車的な事業であることは見え見えで、説明会ではすぐにさまざまな問題点が持ち上がり、住民たちの批判が集中します。私はこの展開を見ながら思いました。なるほど、田舎町VS開発業者の闘いが勃発していくのだな、と。しかし、今となってはそれが浅はかな考えだったとわかります。そもそもタイトルを思い出してみてください。本作に決して悪役は存在しないのです。
ならば話はどう進んでいくかというと、ここまでの視点が華麗にスイッチして、今度は批判の矢面にさらされた芸能事務所のスタッフ側の話になる。それも社員の男女2人が延々と紡ぐダイアローグの中で、互いの人間性、境遇、胸の内にある考えや思いなどが、水の湧き出るかのごとくじわじわと明らかになっていきます。この一連の流れが、ため息が出るほどおもしろい。何気ない会話のように見えて、おのおのの思考が変容していく様子がつぶさに感じられるのです。
流れる水のように、しなやかであること
この年の離れた2人の社員は、車内での対話を通じて、互いの知らなかった一面に触れると同時に、これまで気付かなかった自分自身の本心さえも発見していきます。人との会話というものにそういった不思議な力や効果があるのは、経験上、誰もがご存知のことでしょう。よどみない会話の流れに身を浸し、気持ちを言葉にしていくうちに、自身の心は何ものにも縛られることなく、あるべき場所へと流れていく。思えば『ドライブ・マイ・カー』も車内でのやり取りを描いたシーンが深い人間ドラマを織り成していました。その意味で対話とは、濱口作品においてストーリーを突き動かす1つの原動力と言えるのだと思います。
また、本作には「水は上から下へ流れる」という言葉が登場します。もしも水が上流で濁ってしまったなら、その影響は下流域へとダイレクトに及ぶ。だからこそ、そこで暮らす人々の行為には責任が伴う。これはあらゆる自然環境や資源の問題でありながら、もう1つ、「今この瞬間の決断は、未来へつながる」ということも意味します。その結果を受け取るのは10分後の自分かもしれませんし、主人公の一人娘である花ちゃんのような、子どもたちの世代かもしれません。
小規模なチームだからこそ可能な挑戦
この映画は、石橋英子さんが手がけた静ひつかつ重厚な音楽が響く中、果てしない森の中をさまよう映像で始まり、最後もまたさまよう場面へと舞い戻っていきます。決して固定観念にとらわれることなく、人やストーリーや関係性が水のように流動的であること。これは企画そのものがセッションのような交流を通じて育まれたからこその特性でしょう。また極めて小規模な制作チームだからこそ、意識を1つに、リスクや実験的なつくりも厭わない冒険的な試みに足を踏み出せたのではないでしょうか。
そしてわれわれは最後に思いがけないラストを目にすることになります。このラストを一体どのように表現したらよいものか。本作を鑑賞して以来、私はずっとその意味について考え続けています。きっと一人ひとりがまったく違った感想を持つはず。そしてそれを語り合うことから対話が生まれ、お互いの関係性が未来へつながる変化の種を育んでいく――。小さな作品ではあるけれど、この映画は人が社会や自然を生きる上での重要な指針の1つになり得るのではないか。私にはそう思えるのです。
『悪は存在しない』 2023年 / 日本 / 製作:NEOPA / fictive 配給:Incline 監督・脚本:濱口竜介 音楽:石橋英子 出演:大美賀均、西川玲、小坂竜士、渋谷采郁ほか Bunkamuraル・シネマ 渋谷宮下、K2ほか全国順次公開中 長野県、水挽町。自然が豊かな高原に位置し、東京からも近く、移住者は増加傾向でごく緩やかに発展している。代々そこで暮らす巧とその娘・花の暮らしは、水をくみ、まきを割るような、自然に囲まれたつつましいものだ。しかしある日、彼らの住む近くにグランピング場をつくる計画が持ち上がる。森の環境や町の水源を汚しかねないずさんな計画に町内は動揺し、その余波は巧たちの生活にも及んでいく。 © 2023 NEOPA / Fictive 《著者プロフィール》 牛津 厚信 / Ushizu Atsunobu 1977年、長崎県生まれ。明治大学政治経済学部を卒業後、映画専門放送局への勤務を経て、映画ライターに転身。現在は、映画.com、CINEMORE、EYESCREAMなどでレビューやコラムの執筆に携わるほか、劇場パンフレットへの寄稿や映画人へのインタビューなども手がける。好きな映画は『ショーシャンクの空に』。 |
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